初めてのモスコウ訪問

引揚げ後、初めてモスコウに行ったのは昭和43年、主計局の次長の時で、夏の終りであった。ストックホルムからモスコウへ行く予定になっていたが、器材の関係か、飛行機がストックホルムを発つのが3時間ほど遅れた。ヘルシンキで乗り換えることになっていて、乗り継ぐべき飛行機が2時間近くも待っていてくれていたが、待ち切れなくなって飛び立ってしまっていた。

次のモスコウへ行く便は3日後であるという。東京に戻らなければならない期限もあるので困ったな、どうしようかなと思っていると、夕方にレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルグ)に行く便があるという。とりあえずそこまで行っておけば、あとは汽車でモスコウまで行ってもよい。レニングラードには、有名なエルミタージュ美術館もあるし、是非一度訪ねたかった。ということで、急遽予定を変更し、レニングラードに行く飛行機に乗ることにし、出発までの半日を大使館の人に案内してもらいながらヘルシンキの市内見物にあてた。オリンピックの前か後か、忘れたが、その会場のスタジアムなどを見学したことを思い出す。

レニングラードに着いたのは夜中の12時過ぎであった。乗客の何十人かは一部屋に入れられて、何十分も待たされた。薄暗い電球の点った部屋で、私は、ゆくりなくも、再びソ連に抑留されたような気持ちになった。そんな思いをさせるように、ソ連の兵隊がマンドリン(自動小銃)を抱えてあちこちに張り番をしていた。

やっと乗せられたタクシーは、レニングラードの街を何処かわからぬところへ向けて突っ走っていた。私は、役所からお伴を一人連れていたが、彼はロシア語がわからない。私が昔覚えたロシア語が頼りであった。運転手が何か話しかける。ゴムをくれないかと言う。コンドームのことだとわかる前に、一、二度聞き返さなければならなかった。ロシア語では絹のストッキングが一足あれば女性がつき合ってくれると聞かされていたが、コンドームをねだられようとは思わなかった。

それはどうでもよい。薄明りの夜の街を30分ほど走って着いたホテルでやっと寝ることができてホッとしたが、空港のインツーリストの人間もホテルの受付けもロシア語しか解しないので、頼りとなった私のロシア語がなかったらどうなったのかなあと思った。

レニングラードに向かう時は、ピーター大帝が地図に引いた線のとおりに建設された線路を走る汽車もいいなと思っていた。というのも、ピーター大帝が定規を使って線を引いた時に、途中でちょいと手元が狂って1ヶ所だけ曲がったが、大帝の引いた図面というので、そのとおりに線路がつくられたという話を聞いていただけに、その真っ直ぐで、1ヶ所だけが曲がっているところを走ってみたかったのである。

ところが、レニングラードの空港に着いた時、インツーリストの男の話では、翌朝九時にモスコウに行く飛行機がとれたという。せっかくこの機会にエルミタージュを見れると思ったのがダメになったがそれも仕方がない。ホテルの部屋はどうということもなかったが、翌日のモーニング・コールをくどいくらいに念を押して寝た。

その時、レニングラードへ行くチャンスはなかなかなかったが平成9年8月末からモスコウで催された日ロシンポジウムに出席した時、土、日を利用して訪ねた。サンクト・ペテルブルグという名前になっていた。かつてのツアーの偉力をみせつけてくれる立派な宮殿がいくつもあるのに驚いたが、農民を搾取しつつ金に飽かせてつくった宮殿などが、社会主義革命を経て、70年のソ連邦の時期を経た今でも、ロシアが誇る観光名所になっているのは、北京の故宮や頤和園、明の十三陵などもそうであることと思い合わせると、何だかおかしくもあり、そんなものかとも思った。

その時のモスコウは、まだそれほど活気があるものとは思わなかった。大使は不在であったが、有田公使の案内で2日間、赤の広場やクレムリンなどの名所旧跡を見物して歩いた。抑留当時は何処へ行っても目についたスターリンの肖像や銅像はあまり見当たらなかった。最も、その後のように、全く破壊あるいは撤去されるという状態ではなかった。

スターリンが建てたという「ウクライナ」というホテルに泊った。モスコウでは多分、当時としては一番いいホテルであった。特にどうという印象も残っていないが、ホテルの周りにはうさん臭い男が何人もウロウロしており、公定レートよりも遙かに有利な条件でドルとルーブルを交換すると話しかけてくる。そのほうが得だとわかっていたが、問題になったらいけないと思って断った。聞けば、大使館の連中もあまり公定レートのドルが安いので、国外へ出張の折に、昔の分を集めてルーブル交換しているということであった。

もっとも、大使館の人達はモスコウでは欲しい食物も手に入らないし、入ってもレートの関係でバカ高いのでヘルシンキなどへ出張の際にまとめて買い込んで、公用バウチで送る、ということを話していた。

街の至るところにはおばさん達が立って、手製の人形から家で使っていたような物を売っていたし、街の女らしいのもあちこちで見られた。

頼んで市場も見に行った。大きな公設市場で、かなり豊富に品物は並んでいたが、質はあまりよくないようであった。魚などは種類も量も少なかったが、何よりも眼は赤いし、何か腐ったような臭いがしたし、とても日本では売れるような代物ではなかった。

テレビ、洗濯機などの電気製品も型は大きく、何となく無様で、軽工業はまだこの程度のものかなと思い知らされるような状態であった。モスコウの空港では至るところにソ連兵がマンドリンを抱えて監視していたので、また、ソ連に抑留されるかのような錯覚さえ頭をよぎった。ただ、空港のキャビアは日本よりかなり安かったので、いくらか買い込んだことを記憶している。有田公使に和食をご馳走になったが、当時は、和食の店は数件しかないということであった。

赤の広場やクレムリン、博物館などは立派であった。博物館には第2次大戦の戦利品として日本の武器も展示されていたが、ノモンハン以外に戦争といえるようなものはそうなかったのであるから、満州などが押収したものを陳列していたのであろう。