ナホトカの港に着いたのは、昭和23年7月6日であったが、なかなか日本に帰る船が来ない。また、ラーゲルに逆戻りさせられるのではないかという疑心暗鬼の日が続いたが、それでも、まあ、ここまで来ればまず帰国させてくれるだろうと思って、皆明るい顔色になっていた。
何の作業はないし、野球などをして遊んでいたが、さて、荷物の検査だけはやかましくやられた。船に乗る前に全ての書いたもの、印刷したものは置いていけという命令があったので、そこまで運んできたロシア語の辞書も捨てた。日本を発った時に持って出た家族の写真は軍服の上着の襟に芯代わりに縫い込み、エラブガに建てた弔魂碑の写真2枚も軍服のズボンのバンドの下に当る所に縫い込んで持ち込んだ。カザンの写真館で早取りで撮ってもらった軍服姿の上半身写真も持ち帰ったが、ソ連で写真を撮った人はほとんどいないのではないか。その意味では大変に貴重な記念品である。
8月11日、ナホトカの港で永徳丸に乗船した時は、いよいよこれで本当にダモイできるという喜びでいっぱいであったが、それでも、この船がはたして日本に向かい走るのか、一抹の不安がなかったわけではない。ソ連軍にはこれまで何回も騙されてきたからである。
永徳丸のタラップを昇っていく時、荷物は布製のリュック一つで、船室というようなものではなく、広間のような床に転がって寝るだけである。それにしても、久しぶりの米の飯にありつけて、噛みしめるように味わった。
しかし、船内は嬉しさに満ち溢れるような状態ではない、よそのラーゲル内でいつも行われたという人民裁判という吊し上げに似た行事が始められていた。
今までは、ラーゲルの民主運動家達が、いわゆる反動分子を大衆討議にかけて糾弾していたのであるが、(といって、エラブガのラーゲルではそれに類したことはいっさい行われなかった)それと真反対のことが、日本船の中で行われるようになった。ラーゲルのクラブなどで民主化運動の先頭に立っていた将校を次々と引き出して、大衆討議にかけ、あげくの果ては、皆で殴ったり蹴ったり、散々な目に合わせたのである。
後で聞いたところによると、ラーゲルで吊し上げの多かったところほど、その反動で仕返しが行われ、なかには、ラーゲルで威張っていた民主化運動のリーダーを海に投げ込んでしまった船もあるという話であった。乗船の時より下船の時の人数が少ないことがわかり、役所の係官が調べようとしたが、うやむやにさせられてしまったとも聞いた。
永徳丸では、そこまで酷いことは行われなかったが、かなり手荒らなことをされた者もいて、翌朝整列の際、赤黒く腫れ上がった顔をし、真っ赤な目をした将校の姿もあった。
舞鶴に上陸したのは8月14日であった。昭和20年の8月15日の終戦の日からちょうど満3年の月日が経って、ようよう長い長い抑留生活が終りを告げたのである。
舞鶴には日本海軍の三鎮守府の一つが置かれており、大規模な軍工廠もあったが、今は夢、引揚げ者が上陸の第1歩を踏む土地になっていた。米軍の数次にわたる大爆撃で荒廃した工廠の跡は敗戦の厳しい現実を瞼に焼きつけてくれたのである。
一人ひとり、頭からDDTの白い薬を嫌という程浴びせかけられて上陸すると、その後の手続きが待っていた。引揚援護庁の係官の指示に従って身上申告書の記入も行なわれた。「昭和18年以降の行動(履歴)の概要」と記されたペーパーに書き込むのであったが、およそ手帖その他、書いたもの一切はナホトカで乗船するまでにソ連側に没収されていたから、心覚えで書くほかはなかった。
舞鶴の引揚げ者の寮で3泊ほどして、それぞれ帰る方面ごとに分けられて引揚げ列車に乗車させられた。停まる各駅で多数の人々が迎えてくれたし、ホームではいろいろな物を売っていたが、われわれに支給されたものは、千円札1枚だけであったから、何か食べ物を買ったら、たちまちなくなってしまった。
3年間の辛い抑留生活に対してたったの千円ですませようとするのかと憤激したが、何はさておいてもダモイの、それも多数の戦友が命を落としたなかにあって、生きて帰れた喜びの前には大きな声にならなかった。
列車が進むにつれて窓外に展開する景色は、戦禍がいかに甚大であったかを如実に示すものであった。大きな都市程大きな被害を受けていたが、無傷らしい町は京都を除いて見当たらなかった。