4. 端野いせ

端野いせ (舞鶴抑留記念館蔵)

 

端野いせが立っていた舞鶴の岸壁

「岸壁の母」のモデルとなった端野いせ (1899.9.15 – 1981.7.1) は、石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれ、函館に青函連絡船乗組みの夫端野清松、娘とともに居住していたが、昭和5年 (1930 年) 頃夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和 6年 (1931年) に上京する。新二は立教大学を中退し、高等商船学校を目指すが、軍人を志し昭和19 年 (1944年) 満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。

終戦後、いせは東京都大森に居住しながら、新二の生存と復員を信じて昭和25年 (1950年) 1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。昭和 29年 (1954年) 9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年) 8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書 (舞鶴引揚記念館に保存) を発行。

一方、帰還を待たれていた子・新二 (1926年 - ) は戦後も生存していたとされる。それが明らかになったのは、母の没後、平成 12年 (2000年) 8月のことであった。ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、のちに満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後レントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていた。新二は母が舞鶴で待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。理由は様々に推測され語られているがはっきりしない。新二を発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年 (1996年) 以降、3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだという。

端野いせは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてる。息子の生存を信じながらも昭和56年 (1981年) 7月1日午前3時55分に享年81で死去。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し、一瞬たりとも新二のことを忘れたことがなかったことを、病院を見舞った二葉が証言している。

平成12年 (2000年) 8月に慰霊墓参団のメンバーが、新二が上海市で生存していたことを確認。京都新聞が新二の生存を報道。中国政府発行、端野新二名義の身分証明書を確認。だが、その人物が本当に新二であるかについてはいまだに疑問がある。
平成15年文藝春秋に「『岸壁の母』49年目の新証言」が掲載された。