夕闇のなかの脱出

われわれ軍司令部の要員は、威興から車で1時間ほど離れた定平の中学校へ移るように命じられていた。経理部の将校もすでにあらかた定平に行ってしまっていた。残っていたのは私以外、高級主計のI中佐とU大尉の他数人の将校と下士官だけであった。

われわれが連絡のためにI中佐に話しかけると、上の空で生返事をし、「トラックはまだか」と、そればかりを聞いた。分厚い近眼の眼鏡の底に精一杯のイラダチを見せながらわれわれに催促するI中佐の姿に、帝国陸軍の末路を、職業軍人の浅ましさを見る思いがした。

われわれ幹部候補生は、学生上りだ、何だと言われて粗末に扱われながらも、地位や名誉のためではない、ただ国のため、民族のためと思いながら真剣に闘ってきたことをお互いによく知っているだけに、これら一部の職業軍人のだらしなさは、ただただ情けないとしか言いようがなかった。

六時過ぎであったろうか。やっとトラックが着いたという兵隊の連絡があった。I中佐は、「オオそうか」とパッと顔を輝かすなり、軍刀片手にあたりの者には目もくれずに部屋を出て行った。一緒にトラックに乗るはずの皆に声をかけるでもなかった。私はN中尉と顔を見合わせ、首をすくませた。

トラックは校舎の玄関に着いていた。点呼をしたがU大尉の姿が見えない。手分けして探したが見当たらなかった。I中佐は、大変お冠で、「もう構っていられない、早く出せ」と言う。しかし、もしほったらかしにしたらどうなるか、わからない情勢のもとで、U大尉を置いて行くことは、われわれの気持ちが許さなかった。当然口論となった。

敗戦になったからといって、軍隊は軍隊である。上官の命令には従わなければならなかった。しかし、敗戦という意識は、徐々にわれわれの気持ちの底に滲み込み始めていた。永久休暇の件は取消しになったとはいえ、一度命令は出されて、いち早く司令部から離れたものもいる。その連中が捕ったという話も聞いていない。もう階級もクソもないという状況になったのは、ソ連に抑留されて数ヶ月も経ってからであったが、U大尉をほっておけというような命令には、とても従えないという空気が起きていた。

われわれは、I中佐の叱咤を無視して、U大尉を探した。彼は、ちょっと離れた糧秣倉庫に行っていた。やっと、わかって、彼が戻って来るなりトラックは出発した。もう夕闇が田の面に漂いかけていた。

トラックは全速力で走った。定平に向う途中、先行するトラックが1台あった。司令部のものではなく、どこかの部隊のものであった。早く定平に着かなければソ連軍に撃たれるのではないか。ムラムラと恐怖感が拡がっていった。トラックは、田圃の中の砂利道をひた走りに走る。目の前にかなり急なカーブが現れてきた。坂道ではなく平地であった。100メートルほど前のトラックがハンドルを切り損なったのか、カーブでスピードを落とさなかったせいか、アッという間に田圃の中へもんどり打ってひっくり返った。

われわれは、一層恐怖に駆られて、脇を走り抜けるや、後も見ずに疾走した。「あと、どうなったかな」と、遅い夕食の時に交されたが、こうなるともう他人のことはどうでもよく、ただわれわれの無事を喜ぶだけであった。