給与主任には一人助手がいた。滋賀県の出身で、彦根高商卒の分室主計少尉であった。算盤は巧み、色が白く、丸ポチャの顔に丸い眼鏡の可愛い感じの好青年であって、私の忠実な助手をしてくれた。
給与主任の大事な仕事は、前にも触れたように、毎日の給与人員を正確に把握することであった。人員表はベニヤ板に鉛筆で書き込んだ。消しゴムなどはなかなか手に入らなかったので、消すにはガラスの破片を使って板を削った。この数字がなかなか合わないことがあった。毎日病人が出る、入院する、退院する、所外作業に出る、作業中隊に替るなど、さまざまな原因で中隊間で異動があった。それを追っていくのであるが、各中隊の給与係が必ずしも正確に数字をにぎっていないことがあったからである。
給与主任には、給与人員の把握だけでなく、これに基づいて受け取るべき糧秣をノルマに従って算定しなければならない。一般の人は一律のノルマであったが、入院患者はそれぞれの病状に応じたノルマがあったので、別々に計算しなければならない。
給与主任は糧秣のほかに、毎月1回は給与を、毎旬1回はタバコを受領し、分配するという仕事があった。給与といっても将校一人10ルーブル、兵一人月3ルーブルの少額であったから、当時の公定レートでみても1ルーブル80円として将校一人月800円、兵一人月240円にすぎなかった。
このルーブルで何が買えるかとなると、国営のマガジン(小売店)ならともかくだが、(例えば、黒パン1キロ2.8ルーブル、卵1個1ルーブル)、品物がないことが多い。バザール(自由市場)では買えるが、例えば黒パンは1キロ7ルーブル、卵は1個3~4ルーブルであったから、将校一人月10ルーブルでは卵なら3個しか買えなかった。
タバコは将校一人1日15本、兵一人1日7本でまぁまぁの量であった。ラーゲルに入った初めの頃はタバコの支給も不十分であり、またマホルカという刻みタバコ、というより藁屑みたいなタバコが配給されていたが、やがて口付きのベロモール・カナルなどが支給されるようになった。約5千人の抑留者のほとんどは将校であったから、10日目ごとに受領するタバコの量も相当なもので、計算すると5万本入りのケースであらかた15箱になる。かなりの嵩かさであって、その輸送は糧秣運搬班が当たった。
タバコを吸わない将校はタバコ好きの仲間とパンや何かと交換していた。ギリギリの食事の量であったから、いくらタバコ好きでも交換する人はあまりいなかったと思うが、パンよりタバコが欲しい人もあったし、何らかの方法で町の人とパンなどに交換もしていた。普通は町の人と接触はないが、農耕などで所外に出ることがある。そういう時に交換のチャンスはいくらかあった。
タバコの包装用のやや厚手の紙はなかなかの貴重品であって、ラーゲルの管理を担当していたジュック中尉はタバコ受領の日には必ず顔を出して、「ブマーギ(紙)」、「ブマーギ」と言ってはその包装紙を取りに来ていた。何に使うのかは知らなかったが、これまた何か物々交換のネタにしていたのに違いなかった。この紙はボール紙のような色をしてザラザラしていたが、丈夫で大きかったので色々役に立ったし、壁新聞にもよく使われた。
タバコもマホルカの時は、バラバラして、巻いて吸うのが容易でなかった。ソ連の兵は「イズべスチャ」や「プラウダ」といった新聞の片隅を切って、それにマホロルの粉を載せ、くるくると巻き、一辺を唾で濡らしてくっつけて紙巻きタバコの形にしていた。
ソ連の兵隊は馴れたものであったが、私たちはなかなかうまく巻けず、マッチで火をつけると粉がパラパラと零れてズボンを焦がしたりするヘマばかりであったが、だんだんとうまく巻けるようになった。このマホルカを巻く紙にコンサイスなど辞書の紙が最適であることが間もなくわかった。一枚一枚破ってはマホルカとともに燃えていく。
そのマホルカもなくなると、お茶の出し殻を乾かして、マホルカの代わりにしたこともある。うまくもないが、煙だけは出るので仕方がないさ、ということであった。