2. 沈黙の理由

日本人のシベリア抑留の歴史が世界にはまだ知られておらず、日本の国内でもあまり語られて来なかったことには、いくつかの背景がある。

ルース•ベネディクトは、「菊と刀」(1946) の中で、西洋の「罪の文化」に対して日本の伝統的文化を「恥の文化」と定義した。「道徳の絶対的規範を設け、人間の良心をそれによって育てようとする社会は、『罪の文化』と定義できる。それに対して恥が最も大きな制裁となる『恥の文化』では、世間に問題とされる行動を巡って当事者が悩み苦しむことになる。この苦しみは根深く、告白や贖罪によって消えることはない。」

シベリア抑留の歴史に関する沈黙の一番の原因としてこのように「恥」を良しとしない伝統的な日本人の考え方があげられる。罪を犯したわけでもない自分達が犯罪人扱いをされて囚われの身となったのは、抑留者達にとって耐えがたい屈辱だった。特に「投降するよりは自ら名誉の死を !」と軍隊での訓練で徹底的に教えられていた人々にとって、名誉の死を選択する余地さえなかった心の戦いは、帰国後彼らの沈黙を余儀なくさせた。

また、シベリアでの艱難の中で朋友が次々と倒れて死んでいった時、氷の雪原に穴を掘ることもできず、満足な墓さえ作れなかったのは、残された抑留者にとって最も苦しい事だった。凍った地表にはスコップで満足な穴を掘ることさえできず、時には凍った友の死体の山を残したまま、次の収容所へと移動させられた。死体の衣服は剥がれて、生きている者へと回された。そのように裸のまま氷の中に置き去りにされた、昨日までそばにいた友の無惨な死を見届けながら、自分だけが生きて祖国へ帰れたという気持ちは、どこか後ろめたい罪の意識となり、帰還者の葛藤は絶えず、口を開くのが難しかった。

もう一つの大きな原因はソビエト当局者の目指した日本人の共産主義への洗脳教育だった。そしてそれによって収容所内に起きた「吊るし上げ」と呼ばれた自己批判を迫る集会は、不信による闇の世界の対立を日本人同士の間に引き起こした。それは犠牲者が自ら死を選ぶほどに追い詰められる、現代の「いじめ」に似ていた。最低の境遇におとしめられた日本人同士が、生きて日本に帰るために支えあうどころか、お互いを密告し合って命を奪いあう、そのようなおぞましい経験は誰も口にせず、忘れ去ってしまいたいことだった。

グーラグ(収容所)の中でどのようなことが起きたのか。ソビエト側は抑留者の中から洗脳されやすそうな日本人を選び、「民主運動」という名の下で「共産主義教育」を行った。成果のあったものを「アクチブ」と呼んで彼らが先に「日本へ帰れる」という目的を与え、食べ物や衣服などの少しばかりの良い待遇も与えた。捕虜達は「アクチブ」になれば、飢え、寒さ、重労働の死と隣り合わせの「三重苦」から逃れることができた。また初めの内この「民主運動」は、ソ連側が当初意図的に保った日本の旧軍隊の上下関係の秩序を問題視したので、生死を彷徨うギリギリの場でも時に上官からの暴力にあい、虐げられ、食べ物さえもかすめ取られていた下級兵士達はこれを支持した。だが、この「民主運動」は徐々にその姿を変えて、事実上アクチブとなった日本人が、共産主義に反する日本人を同じ収容所内で攻撃する「対立」へと移行して行った。いつ自分が密告されてリンチにあうかわからない不安におののく毎日の中で、収容所内は日本人同士の修羅場と化した。抑留経験の中で最も耐えがたいことはこの「吊るし上げ」だったことが多くのシベリア抑留記に記されている。

そしてそのように「共産化」された一握りのアクチブが祖国日本の土を踏み、共産主義の活動の気配を見せた時、日本の社会は不安を募らせた。そして、帰って来た抑留者全員に対して「シベリア帰りはアカだ」という警戒心を持ったのだ。長い苦労の果てにようやく帰国を果たしたごく普通の帰還者達は、家族との再会を喜ぶのも束の間、危険分子とみなされることになった。こうして、再出発や再就職の道さえも険しいものとなった。「ご苦労さま」という労いの言葉を受けるどころではなく、待ち望んだ祖国で生き伸びる為に、「シベリア帰り」である事を隠さなければならなくなってしまったのだ。何と不運なことだろう。帰還者が家族に抑留生活について何も語らなかったという例はあまりにも多く、それが小さな集落で、言われのない噂から、家族を守るためだったとこともあると聞いている。

最後に、「忍耐を重んずる」日本の伝統的な考え方もこの沈黙の大きな一因であったのではないかと思われる。古くから農耕文化の発達した日本では、生産を確保するための村、隣組といった集落の一致協力が不可欠で、そのような文化的土壌の中では不平不満は禁じられていた。つまり、自分の不幸な境遇について語る事は潔しとされなかった。その中で、「忍耐と沈黙」は一つの生き方の美として尊ばれていた。

最近ではこのような様々な背景からの長い沈黙を破って、少しずつ語り始める元抑留者の例もある。が、各家庭や公共の場で歴史の事実が伝えられることが少なかったことは、歴史の空白を作った。