抑留問題の紆余曲折

われわれ全抑協は、抑留の不法なることを非難し、ソ連政府に謝罪を求めると同時に、その強制労働に対する補償(賃銀の支払い)を要求し続けて今日に至っている。

昭和31年に締結された日ソ共同宣言の第6項(注)に相互に請求権を放棄するとの一項があり、これを盾にとってソ連側、そして現在はロシア側もわれわれの補償要求に対して一顧も与えないような態度をとっているのである。

われわれは、北方四島の一括返還についてもこの共同宣言の第9項(注)にかかわらず、要求を続けているのであるし、共同宣言がそのまま日ロの平和条約となるものではないはずだから、請求権の問題に関しても、もう一度見直しをソ連側、現在はロシア側に要求してもらいたいと再三、再四求め続けてきたが、外務当局はきわめて冷淡である。

第一、日ロの首脳会談がすでに何回か行われており、外相レベルの会談も数多く行われているが、抑留問題を正面切って採り上げたことは、当初の抑留者送還問題を除き、ほとんどない。

あれは、小泉内閣の時であった。平成15年、小泉首相が1月9日の日ロ首脳会談のためにモスコウに出かけられるということを新聞で知った私は、12月の30日、首相に面会を求め、総理公邸でお会いし、歴代首脳会談でソ連抑留者の問題がほとんど採り上げられていないのは残念であるから、是非採り上げてもらいたい旨をお願いした。

小泉首相は真剣に話を聞いてくれた。その際、私は言葉を強めて、ソ連の抑留生活は寒さと飢えと病苦に悩まされたが、何よりも捕虜と呼ばれ、人間並みの取り扱いを受けなかった屈辱に耐え切れない思いがしたことを述べた。

われわれは、戦闘中に自ら白旗を掲げたのではない、8月15日に天皇陛下の命令で終戦ということになったのであって、戦争が終わった後に戦時俘虜と呼ばれることはないこと、そしてソ連の不法行為に対する謝罪と抑留間の賃銀の要求について話をした。

翌1月の日ロ首脳会談で、初めて小泉首相がプーチン大統領との会談の際に抑留者のことを採り上げると同時に、モスコウ、ハバロフスクの日本人墓地にお詣りをしてくれたことは感謝している。しかし、謝罪と補償要求について小泉首相が充分話をされたかどうかは、どうも明らかではない。いずれ、ご本人にも確かめてみたいと思っている。

謝罪については、平成15年、エリツィン大統領が来日した際、抑留者団体の代表として赤坂の迎賓館で会った私に対し、「イズビニーチェ」という一言が会った(ご免なさい、というような意味で、私は不満であったが)し、また、その時の宮中晩餐会の席上、エリツィン大統領から謝罪の言葉があったと伝えられているが、私は出席していなかったし、どういう言葉であったか承知していない。

もっとも、ソ連は昭和20年の9月6日、日ソ不可侵条約を一方的に破り、また、ポツダム宣言に違反して日本軍将兵60万人をシベリア奥深く運び込んだことについては、毛頭謝る意思はないようで、抑留者の処遇について、6万人も死なせたことについて、まあ申し訳ないと言っているにすぎないと思う。だから謝ったといっても、本当に謝ったことにはなっていないのである。

われわれソ連抑留者の団体である全抑協が過去何十年もの間、どういう運動を続けてきたかについては、是非1本にまとめて公表したいと考えている。幾多の紆余曲折があったとしても、2回にわたって慰労金の支給などを実現したが、まだまだ中央慰霊碑の建設、記念館(史料館)の建設などの仕事が残されているし、何よりもロシアに対する補償要求の旗を下ろすわけには参らぬと思っている。

しかし、抑留者の平均年齢は80余年となり、日々その数は減っていくばかりである。

この数年のうちに、残された事業を完成させなければならないと思っているが、日暮れてなお道遠き思いを禁じえないのは、まことに残念である。