エラブガに収容されていた日本人の大部分はいうまでもなく軍人で、そのほとんどが将校であったが、なかには軍属や民間人も混じっていた。満州国の日本人官吏、樺太庁の官吏などのほか、例えば樺太の王子製紙の役員などであった。
無論その数は多くはなかったが、100人くらいはいたろうか。地位の高い人達たちや年配の人が多かったので、一般の軍人と区別して、文官中隊と称する中隊に編入され、作業も軽作業、主として芋の皮むきなどをしていたため、野菜調理班とも呼ばれていた。
その文官中隊は炊事場の一角で黙々として芋の皮むきをしていた。冬ともなると、石のようにカチカチに凍った馬鈴薯の皮をむくことは、手間のかかることであったが、伐木や材木運搬のような厳しい戸外作業にくらべれば無論楽なものであったし、第一、芋をこっそりポケットに忍ばせて、部屋のペーチカで焼いて食うなどの余禄もあって、わりと羨ましがられる作業班であった。
満州国の偉い官吏も沢山いた。厚生部次長の関屋貞蔵氏や各部の次長クラスが何人もいた。満州国の各部というのは、日本の各省に相当するものであったから、部の次長というのは次官に相当する重要なポストであった。そのうえ、各部の部長、つまり大臣は満州国人が任命されていて、役所の実権は日本人が握っていたから、実力は大臣といってよかった。岸信介氏もかつて商工部の次長として威勢を振るっていたということである。
関屋氏は、一高の私の先輩で、ラーゲルの一高会を開いた時に初めてお会いした。一高会は十数人のメンバーを数えたが、そのなかには、右翼団体として有名であった昭信会のリーダー小田村寅二郎氏や、新人会という左翼グループの一人、清水達夫氏もいた。まさに呉越同舟、一高の諸先輩の活動の幅の広さを思わせるものであった。
変わり種といっては失礼になるが、一高会の一人に保篠龍緒氏がいた。私が小学生の頃から親しんだモーリス・ルブランの『ルパン全集』の翻訳者として名前をよく知っていたので、初対面の時から大変親しい気がして、思い出すルパンの数々の小説について話をした。保篠さんは大変緩和な方であって、私がよく覚えている題名を嬉しそうに聞いていた。
軍人以外のいわゆる文官の人々をなぜ抑留したのか、これまたよくわからなかったが、情報を取るためではなかったろうか。文官のなかには、裁判官、検察官、警察官なども含まれていたが、こういう人達は、憲兵隊や特務機関(諜報関係)の将校などと一緒で、ソ連側からトコトン調べられたようである。戦犯容疑の人もなかにいたと思うが、随分長い間日本に送り返されなかった人もいたはずである。
あの暗い裸電球の下で、石だか何だかわからないような薯をよく切れない包丁で剥いていた文官中隊の人々の姿は今でもよく思い出す。あの人達はどうしておられるのか。年齢からいっても、あらかた亡くなられたと思う。
野菜調理班じゃ、馬鈴薯のほか人参、キャベツ、大根、トマトなどの野菜を扱っていたが、そのまま食べられるキャベツ、胡瓜、トマトなどは大変歓迎されていたようである。
とにかく、少しでも食物の近くにいるということがラーゲルの生活では大事なことであった。