大蔵省への復帰

横浜駅には、父と妹が迎えに来ていた。3年前、出征する時に見送ってくれて以来の再会に手を取り合ってただ涙するばかりであった。しかし、父が長い教員生活の間の貯えによってやっと建てた横浜(西竹の丸)の自宅も空襲で焼かれ、再び自分の家を得ることもできず、家族一同は清水ヶ丘の小学校の旧校舎を間仕切りした弊屋に住んでいた。洗面所も便所も共同で、風呂は銭湯であった。姉は戦争の間に亡くなっていた。

23日間にわたるシベリア鉄道の貨物列車の中で寝ても覚めても考えていたのは、東京に帰ってからどうしようかということであった。つまり、東大法学部を卒業して入った大蔵省に戻るべきか否か、戻らない場合はどう生きていくかということであった。

昭和17年の9月に入省した同期は27名、おそらく自分が一番最後に職場に復帰することになるのではないか、復帰しても同期は皆先へ進んでいる、一番ビリで追いかけても出世することは難しいのではないか、ならば、いっそのこと在学中の司法試験合格の資格を生かして弁護士になろうか、そうだ、それが一番いいと、列車がナホトカに着いた時は本当に固い決意をしていた。

自宅に帰って翌々日、大蔵省に出かけた私は、河野官房長、大月秘書課長に会った。官房長からは、「君は同期生の名簿に“行方不明”と朱記されていたが、よく帰って来たな。明日から出てくるか、待遇は同期の皆といっしょにするからな」と言われたが、「一昨日引揚げてきたばかりだから、ちょっと休ませてほしい」と答えると、「君みたいに帰ってすぐ役所に出てきた人はいないな。少しは休んで出てきたらいい」とのことであった。

弁護士になろうという固い決意は、たちまち淡雪のように溶けて、大蔵省に戻る気持ちに変わった。人間の決心なんていかに脆いかということが自分でよくわかった。もっとも、戦後、制度が変わって、司法試験に合格していても弁護士になるには2年間司法研修所で研修を受けなければならないうえに、その間は大変低い給与で我慢しなければならないということを知らされた(戦前は試験に合格していれば、どこかの弁護士事務所に所属して実務を習得すればいいことになっていた)。

私は独り身ではなく、婚約しているにすぎないが、いずれ早急に結婚して家族をもたなければならない。その間、司法修習生の薄給で世帯を賄えるだろうかという心配もなかったわけでもない。いずれにしても、弁護士になることは諦めて大蔵省に戻り、最初に与えられたポストは、国有財産局賠償実務課の首席事務官で会った。

それはそれとして、戦時統制は継続し、米などは配給であったが、その量は少なく、銀シャリを腹一杯など夢で、玄米を瓶でひいたり、大根などを刻んで入れるのは当たり前だった。ヤミ市には品物はあったが、高すぎて手が届かなかった。

もっとも、私どもが帰還したのは戦後も3年経っていたので、それでもかなり良くなってきたということであったから、出征した後の戦中・戦後の、いわゆる銃後の人達の生活は本当に苦労の連続であったろうと察せられた。

それでも、ソ連軍侵入地以外の戦地にあり、戦後すぐ引き揚げることができた将兵はソ連引揚げ者にくらべればまだよかったといえる。戦後、急激な社会の変貌に即して、それなりの行動をとれたし、就職の道を確保することもできた。ところが、ソ連引揚げ者は、2, 3年の空白があり、家族にも行方がわからなかっただけに、いろいろな被害を蒙らざるをえなかった。

私は、すぐ大蔵省に復帰できたからよかったものの、会社が潰れていたり、もうポストがなくなっていたりしている者も少なくなかった。戦後の農地改革で不在地主とされ、農地を取り上げられた者もいたし、戦死したとみなされて妻が再婚し、それも兄弟の妻になっていたりと、いわば踏んだり蹴ったりの目にあった者も少なくなかった。抑留中にきわめて劣悪な食糧などの生活条件下にあっただけに、引揚げ後、病気になったり、抑留生活が何らかのかたちで後遺症の原因となっている人も多いといえる。