ラーゲルに着いたわれわれは、本らしい本を持っていなかった。満州で抑留された人が大部分であったから、戦地で前線にいた軍隊と違って、当初はかなりいろいろなものを持っていたが、移動が重なるに連れて荷厄介なものを放棄するようになるのは当たり前であった。ことに本は重いので、まず槍玉にあげられる口であった。
エラブガのAラーゲルには、ドイツ軍の捕虜たちの使っていた図書室があった。もちろんドイツ語の本が大部分であった。扉に“BIBLIOTEK”と几帳面な字で書かれた部屋は余りに大きくはなかったが、蔵書は2千冊くらいあったろうか。
『マルクス・エンゲルス全集』をはじめとして、マルキシズム、レーニズムなどに関する本が多かったが、ソ連の小説のドイツ語訳などもかなりあった。
われわれの学生時代は、特に大学に入ってからは、大東亜戦争下の思想取締りが厳しかった。東大からも何人もの学生が逮捕されて多摩の刑務所に送り込まれていた。
われわれ一高の同級生仲間が数人集まって読書会を開いていたが、フォアレンダーの『カントとマルクス』をテキストに使うにも大変気を遣い、転々と場所を変えながらしなければならなかった。そんな重苦しい雰囲気であった。マルクスという名前がいけなかったのである。それでも学生として、いずれマルキシズムぐらいはかじっておかなければならないという思いで、本郷、神田、早稲田などの古本屋街を歩き回っては、いわゆる「アカ」の本を買い漁っていた。
私は、横浜の伊勢崎町にある一軒の古本屋の親爺と顔馴染みになっていたが、彼が北陸あたりで仕込んできたその関係の本を、私もかなり沢山買い込んだ。高畠素之訳の『資本論』は、友達に頼まれて7、8組も買った。後に東大教授として東の古谷、西の何々と言われたほどの俊秀な経済学者となった古谷君もその友人の中の一人であった。『マルクス・エンゲルス全集』も一揃いあったが、少々欠本があるのが玉に瑕であった。これは私と一緒に大蔵省に入って財務官になり、NHKの解説委員などをしていた細見卓君が買った。たしか70円であったと思う。
それらの本を読む暇はなかった。待ったなしの入営が控えていたし、ゆっくり本を読むような雰囲気ではなかった。だから、私も買ってきた何十冊もの本は木箱に納めて、時々表紙を眺めては、いつの日かゆっくり読む折を楽しみにしていた。
北支に出征の際は、私に万一のことがあった場合は、この木箱の中味は焼き捨ててもらいたいと家族の者に固く言い置いておいた。この言付けは守られなかった。否、守る必要はなくなったのである。というのは昭和20年春に米軍の横浜空襲でわが家は丸焼けとなってしまったからである。
エラブガのラーゲルは将校収容所であったし、その将校の過半数、というより大部分は幹部候補生の出身で、いわゆる学徒出陣が多かったので、勉強に関心の深いインテリ層で占められていた。そこで読書会が生まれた。
といって、原典を多勢で読むことは難しかったし、結局、誰彼で分担して日本語に訳し、それをテキストとして読み上げては議論するというやり方となった。