問題は食事である。黒パンが少々と豆のスープ。ソ連の計画経済のように計画と実際とが喰い違うのか、それはわからないが、食事の配給も出鱈目であって、宿へ着いて2、3時間も待たされることもあった。
私は、相変わらず給付係を担当していたから、皆の苦情を代わって引き受ける羽目に陥ったが、私ではどうともなるものではなかった。とても、こんな食事では身体がもたない。われわれは、歩きながら持ち物をパンに替えるようになった。行軍の列が伸びて、不規則な一列縦隊になる。その列を村の人達、大人も子供も待ちうけていて、固い、黒い、藁の混じったお供えのようなパンを見せて、「ダワイ」と言う。「ダワイ」というのは便利な言葉で、どんな場合でも使える。日本語で言えば、「サァ」と言う掛け声みたいなものであろう。丁寧に言えば、「ダワイチェ」である。
彼等の欲しがるものは、子供だと鉛筆、万年筆、大人だと布などであるが、それらに限らない。その物々交換のレートもまことにまちまちであって、部落によっても違うし、人によっても違う。初めは、手当たり次第に相手の言うとおり、持ち物をパンと交換していたわれわれも、次第に馴れてくると、交換レートをやかましく言うようになる。物もなくなってくるからでもあったが。
いくら食べても腹は空いていた。そんな感じであった。もっとも、食べなければ、凍え死ぬという恐怖心があったのかもしれない。ただ、輸送途中で荷物をなくしたような人は、交換するべき品物がないために、食物を手にできなかった。
ソ連の住民も、量はともかくとして、ろくなものを食べていないことは、やがてわかったが、自家製のパンは凍って、硬く藁くずが多く、鋸でも持ってこないと切れないようなものもあった。しかし、空腹は最高の味付けで、凍ったパンを舌の上で暖めて溶かしながら、いくらでも食べられるのであった。白とはいえない、薄茶色のパンもあったが、これは上等の部類に属した。
行軍は1日経っても、2日経っても終わらなかった。吹雪は止むこともあったが、いつの間にか雪空になった。年をとった人、身体の具合の悪い人などが落伍し始めてきた。3日目あたりは、とくに吹雪がきつくなった。道端の雪の上に倒れたまま身動きもせず、「もうダメだ」と力なく言う。手を引っぱっても起きない。「寝かせてくれ、ほっておいてくれ」と言う。「寝ては死ぬから、起きろ」と何度声をかけても、起きない。しまいには、頰を力一杯叩いて目を覚まさせようとするが、こちらも体力の限界で、とても人一人引きずって歩き力もない。共倒れになるよりはと、橇に乗るようにきつく言って前進する。振り返ってみれば、依然として雪の中に眠りこけている。死ななければよいかなと思いつつ、前を進む。同僚の姿を見失わないようにトボトボとついていくしかない。こういう辛さは私一人ではない。皆で助け合いつつ歩いたが、助けられない極限にまできては致し方ない。
4日目の夜、10時頃であったが、やっと目的地に到着した。エラブガという小さい町であった。収容所のドイツの将校が先住民族のような顔をしてわれわれを出迎えた。
この4日間の行軍で、何人もの犠牲者を出した。疲労し切って橇に乗った人が、動かなかったので手足の指を失った。われわれは、後にこの行軍を「死の行軍」と名づけて語り草にした。あとで聞いた話であるが、行程は約100キロメートル。4日間で割れば、1日25キロメートルであるから、それほどの距離ではなかったが、何せ、23日間も貨物列車の中に揺すられ通しで、脚がダメになっていたうえに、寒さと飢えに呵まされていたのであるから、最悪のコンディションでの行軍出会ったといえよう。