ジェレノドリスクの病院

昭和21年の2月、まだ雪の深いエラブガの収容所を出発させられた私達20人は、2メートルもの雪の中を歩かされてカザンの駅から汽車に乗せられ、ジェレノドリスクの病院に入れられた。そこで、4ヶ月に渡る調査を受けたのであるが、一体、私は何の容疑で取調べを受けたのかよくわからなかった。

汽車の箱にはかなり沢山の人々が乗っていた。シューバ(毛皮のついた外套)や綿入れの服を着た男女の表情は何か疲れているように暗かった。

その一人がマホルカの吸いさしを床に投げた。すると、われわれの仲間のY少佐がそれをすぐ拾って、うまそうに吸った。同僚の一人が押し止めようをしたが間に合わなかった。餓鬼という言葉があるが、タバコ好きのY少佐にとって、この1, 2日タバコが切れたことは、まさに餓鬼同然ではなかったか。それにしても、かつての帝国陸軍の少佐が乞食同様な真似をすることにそれほどの抵抗を感じなくなっている状態が、私にも何となく悲しかったし、誰ともなく怒りをぶつけたかった。

カザンの駅から何キロ走っただろうか。ローカル線はどこまでものろく、ただゴロゴロと単調に揺れていた。二時間ほど経ってやがて汽車は小さな駅に着いた。ジェレノドリスクという駅名が読めた。やはり雪は深かった。コンボイ(護衛兵)の「ダワイ」の声で、われわれ20名は雪道をトボトボと歩き始めた。

駅からの道は遠くなかった。やがて、一塊の白い建物が目に入った。粗末な木の門をくぐり抜けると、何ともつかない色のガウンをした男の群れがのろのろと歩いていた。そこは、病院であった。

風は冷たかった。一行は、例によってソ連兵の要領の悪い荷物検査を受けた。一体何回調べたら気がすむのだろう。片時といえども目を離さないコンボイが付いていて、一体何を持ち込めるというのだろうか。そして調べるとすぐに何か欲しがりそうな表情をするソ連兵のうるさい視線を躱すことは容易ではなかった。

その病院の一室にはわれわれ20人のベッドが並べられていた。病室は白の壁で明るく、それなりに小綺麗になっていた。病室のサニタール(看護兵と辞書には書いてある)としてドイツ海軍のフリッツ・ハァベアマスという中尉がいた。背は高く、頭は薄く、痩せて眼ばかり光っているような男であったが、日本人の世話係となっていた。といって、朝、昼、晩の食事を運んで、配分するのが主な仕事であった。

海軍の軍人がなぜソ連に捕まったのかと聞いたら、乗っていた駆逐艦がアメリカ軍の空爆で撃沈され、海に投げ出されたが、何時間も泳いで救出されたのがソ連の軍艦の上であったという話であった。

この男もカイザー党であるが、自分の女房は違うと言っていた。われわれに対しては、かつての枢軸アクシスの国同志という多少の連帯感が働くせいか、はなはだ親切で、献身的ですらあった。彼は、英語も上手ではなかったが、かなりしゃべれたので、私達日本人とはもっぱら英語で用を足していた。

私と一緒にこの病院に入れられた20名は無論全員将校であったが、そのうち尉官は私一人だけで、あとは全員佐官であった。身体が悪い人はいないのであるから、あっという間に終わる食事がすめば、ベッドに座って雑談をするしかすることがない。

そのうち、輪講みたいに、皆で代わる代わる話でもしようということになって、須賀大佐のユダヤ研究の話を何回かに分けて聞いたりするようになった。須賀大佐は軍医で、たしか、公主嶺の陸軍病院の院長をしていたという。

大佐のユダヤ研究は聞いていて本物であることがわかるくらい線密で、フリーメーソンとの繋がりも述べていた。陸軍の四王天延孝中将を始めとして何人もユダヤの研究家、それも本当の研究家がいるが、畳の上で天寿を全うしたためしがないということであった。

そして、誰かが半畳を入れて、「じゃ、須賀大佐もそうなりますかな」と言ったら、入れ歯の口をモグモグさせて笑いながら、「そうかもしれませんね」ということであった。

その場は、皆の笑いで終わったが、その後病院で別れた須賀大佐の姿を見かけなかったし、帰国されたという噂も聞いていない。ハバロフスクで亡くなったのではないかという話も聞いたが、いずれにしてもご本人の言葉が予言めいているようで恐ろしくもあった。

大佐は医学用語字典を持っていた。学校での教材ではなかったと思うが、ドイツ語の医学の術語を邦訳したもので、ドイツ語の字引きとして利用するには不便であったが、それでも私には役に立ったので、よく貸してもらった。