陸軍の部隊におられた人なら「飯上げ」の楽しさを思い出されるであろう。食事を炊事場に取りにいって、内務班で分けることである。もっとも部隊の中で炊事場というのは炊事当番になった初等兵にとってすこぶる怖いところであった。
大体、炊事班長というと古参の軍曹がなって「炊事軍曹」と言われていた。この炊事班には軍人勅論もまともに暗誦できない、銃の取り扱いも満足にできないような兵隊も結構いた。もちろん、板前出身もいたし、コックをやっていた者もいた。ならずもんも混じっていて、身体中クリカラモンモンの兵隊もいた。
飯をタラフク食っているし、力仕事をするので筋骨隆々の炊事兵に怒鳴り上げられると初年兵は身を縮め、震えたものである。「バクカン」(麦缶)と称するアルミの大きな缶に麦飯を入れるのであるが、そのバクカンを恐る恐る返還しにいき、うまいことうるさい眼を盗んでソッと置いて帰ろうとすると、途端に「待てェー」の雷が落ちる。
バクカンをためつすがめつ調べて、たとえ飯粒一つでも発見すると、「も一度洗ってこい」とバクカンを投げ返される。「ハイッ」とばかり、泥だらけになったバクカンを拾って、洗い場で洗い直す時の腹立たしさ。冬の水は手が痺れるほど冷たく、無念の涙を洗い流したものである。投げ出されるくらいはまだましで、ちょっと虫の居処が悪ければ、往復ビンタである。以上は部隊での話であって、シベリアの列車搬送の飯上げとは無論違うが、ついでに書いてみただけである。
列車輸送中の食事はなかなか大ごとであった。走りながらの車中で炊事しなければならなかった。糧食は停車駅で受け取ったり、糧秣車に乗せてあるものを使うのであったが、列車はなかなか予定どおりに走らないものだから、糧秣がうまく炊事車に届かないことがあった。炊事車といっても、ただの有蓋貨車に旧日本軍の炊爨車を乗せて動かないように固定したものであるから、狭い車中で飯を炊き、おかずを作るのは容易なことではなかった。貨車は揺れるし、釜の中から湯が溢れるし、半煮え飯はできるし、要領を覚えるまでは散々であった。
私は、軍司令部の主計将校であったので、当然のように給与担当の仕事を引き受けさせられていたため、駅に着くたび真っ先きに炊爨車に駆けつけなければならなかったし、でき上がった飯を各車輌ごとに分配するのが、これまた一仕事であった。
貨車輸送が始まってしばらくの間は、米や味噌の支給が続いていたので、日本食みたいなものを作っていたが、その配分がまた容易なことではなかった。炊いた米の飯や味噌汁を針金で釣った四斗樽に入れ、それを二人が丸太棒で担ぐのである。停車時間が充分ある時はよいが、時間の短い時は、それこそ大急ぎであった。何の予告もなく列車が動き始めて、慌てて飛び乗ったこともある。