新聞や雑誌に、ソ連抑留達は皆共産主義の洗脳を受けたように書かれたことがあった。たしかに、シベリアの一般の収容所ではそのようなことがあったようであるし、洗脳されたような顔をしなければダモイさせてくれないような雰囲気もあったらしい。「吊るし上げ」という大衆討議の名を借りた脅迫も盛んに行なわれたと聞いている。
しかし、エラブガのわれわれの収容所は違っていた。収容所に入った当初は、例えばBラーゲルでは、ワグナーというドイツ人の捕虜出身の共産党員が「クラブ」と称する部屋の主であった。捕虜貴族という言葉は、当時使われていたわけではないが、労働貴族という言葉に準じていてば、そういう形容がふさわしかった。個室を与えられた優雅な生活で、「スペシャル」といわれた御馳走を食べていた。
この彼が、ラーゲルの教化係であって、もとはといえば、ドイツ人捕虜の洗脳作業の責任者であったらしいが、われわれの洗脳係にもなった。メーデーとか何かの記念日などには、われわれを集めて説教があった。
われわれの仲間で語学のうまいものが通訳をしたが、ワグナーはドイツ語のほか、英語もかなり流暢にしゃべった。ロシア語はもちろんであった。後に至って、「日本人クラブ」も誕生したが、積極的に洗脳するというような働きかけはなかった。クラブ担当のソ連の某少佐も人のよさそうなお爺さんみたいで、ことある時は、ボソボソと何かしゃべっていたが、お義理のようでもあった。
メーデーや10月の革命記念日などには、われわれもデモ行進の真似ごとをやったが、空き腹を抱えての行動では何とも気勢があがらなかった。鉄条網の中では、一体誰にデモるのであろうか。お蔭様で、メーデーの歌は覚えた。あの歌の内容は、まことに陳腐なものであるが、メロディとしては悪くない。小学生の頃、横浜の街を警官のサーベルにびっしりと囲まれながら行進していた一隊が、この歌を唄っていた。われわれ小学生は、あれは「アカだ」と教えられていた。何か悪いことをしたのか、しそうなのか、いずれにしても危険なものを見るような顔で、こわごわ隊列を覗き見したことを思い出す。
ソ連側も、われわれ将校団に対しては、一生懸命洗脳しても仕方がないと思ったのか、余り干渉をしなかった。収容所の中には「桜会」といったような右翼の団体も誕生していた。「桜会」は陸軍士官学校出の若い将校が結成していたもので、少々目に立つ運動をしていたかどで、後でダモイが遅らされた連中もいた。
戦争に負けて、一番悩んだのは、いうまでもなく職業軍人であった。特に、兵隊から叩き上げて将校になったような年輩の人は、さて、これから国に帰ってどうして暮らしていくかなど思い患うことも多かったのではないか。思い詰めて頭がおかしくなった人もいた。
そういう人達は隔離され、いわば軟禁されていたが、窓から飛び降りて死んだ人も何人かいた。
洗脳されやすい人は、大学は理科系出身か若い陸士出などであった。思想的に染まっていない、いわば無垢な人達が、共産主義にも染まりやすいのだなと思って見ていた。最も、唯物主義思想は理科系の人達には入りやすいのかもしれない。
ラーゲルでの洗脳活動はあらまし以上のようであって、それほど目覚しいものではなかったが、これとは別に、共産党に入る勧誘はかなり執拗に行なわれていたらしい。もちろん、ソ連側がこれと眼をつけた特定の人である。噂によると、帰国後の入党を約束した人は早く帰されて、ソ連側の出先と密接な関係にあったという。
ある東大出の若い将校が、この手口で入党させられ、帰国後ソ連の手先から情報の提供などを強要され続けたあげく、精神に異常をきたし、長いこと治療を続けたが、ついにある日、突然に窓から身を投げて死んだということを耳にした。気の毒な話である。