シベリア抑留史

シベリア抑留史

1945

8. 8 ソ連対日宣戦布告。満州に侵攻。

8.14 ポツダム宣言受諾

8.15 日本、無条件降伏。天皇、ラジオを通じて第二次世界大戦終戦の詔書を放送。

8.19 沿海地方ジャリコーヴォのソ連極東第一方面軍司令部で日ソ両軍代表による停戦交渉行われる。停戦後ソ連軍に武装解除を受けた部隊から次々に中間集結地に捕虜–抑留要員として集結させられる。

8.23 スターリン、「日本軍捕虜50万人をシベリア移送」を指令。

8.27 黒河周辺の戦闘部隊の一部から、武装解除後、早々とソ連領へ連行されはじめる。

9.2 日本、降伏文書に調印。

9.15 ソ連赤軍政治部が日本人捕虜に与える新聞として『日本新聞』を発行。発行所ハバロフスク1949.12.30発行の662号まで刊行。

 

1946

5.25 抑留開始からこの年の春までに、酷寒と粗悪な食料事情と重労働のため、全死亡者6万人余の約8割が死亡。

9.27 ソ連、抑留日本人送還につきソ連駐日代表部に権限が付与され、月1万〜1万5000人送還する旨、GHQ情報部発表。

10.1 ニュルンベルグ国際軍事裁判、最終判決。

12.29 在ソ日本人捕虜の引き上げに関する米ソ協定正式成立。毎月5万人づつ日本に送還すると発表。この年12.8〜翌年1.6までに引揚船4隻が舞鶴港に入港。

 

1947

4.7 シベリア引揚再開。第一船「明優丸」入港。

4.25 日本、第22回総選挙。

5.3 日本国憲法施行。

6〜7月ころから作業能率向上をめざす青年行動隊による突撃隊運動始まる。またこのころから、学習活動や文化活動が盛んになる。

12.1 ナホトカ引揚船「大安丸」函館入港。

12.5 ナホトカ引揚最終船「山澄丸」舞鶴入港。この年4.7から12.5までの間に83隻により17万6581人が舞鶴に。

9.15〜12.1に10隻により1万9148人が函館に引揚げた。

 

1948

2.15引揚げ促進陳情書98万通ソ連代表部へ提出。2〜3月。各地区各収容所に反ファシスト委員会が一斉に確率。収容所運営の自主性が強まる。

4.1 ソ連、ベルリン封鎖開始。

5.5 ソ連引揚再開第一船「千歳丸」函館入港。月末まで計14隻。

5.6同、「明優丸」舞鶴入港。

5.11GHQ, 毎月16万人引揚をソ連側に要求。

5.15パレスチナ戦争始まる。

8.13大韓民国樹立宣言。

9. 9朝鮮民主主義人民共和国樹立。

11.12極東軍事裁判所、25被告に有罪判決。

12.23 東条元首相ら7名絞首刑となる。

12.4ナホトカ引揚本年度最終船、「英彦丸」「朝嵐丸」舞鶴入港。この年12.4までに、87隻により16万9619人が舞鶴港に引き揚げた。

 

1949

3.17GHQよりソ連代表部あて—抑留邦人の引揚再開についてソ連の意向を質し、併て毎月10万の受け入れ完了、一日も早い引揚再開を申し入れ。

4.4 北大西洋条約機構(NATO)発足。

5.20ソ連タス通信、日本人捕虜(将兵)は、戦犯関係をのぞき9万5000人の送還を11月までに完了する、と発表。

6.27 ナホトカ引揚船「高砂丸」舞鶴入港

10. 1 中華人民共和国成立。

10.29 『日本新聞』の民主運動関連記事終了

12. 2 引揚船「信洋丸」舞鶴入港。この年はその他44隻の引揚船が入港。

 

1950

4.17 ナホトカから「明優丸」舞鶴入港。(将官39人を含む1600人)。

4.22 ナホトカから「信濃丸」舞鶴入港。(1244人)。 ソ連政府はタス通信を通じ、「日本人捕虜の送還完了」、残留戦犯2548人(うち971人は中国へ)、病人9人、従ってソ連から日本に送還された捕虜は全部で51万409人。ただし1945年に直接戦闘地で釈放された日本人捕虜7万880人はこの中に入っていないことを明らかにした。

6.25 朝鮮戦争勃発。

 

1955

10.16 ハバロフスク事件起る(ソ連側の取り扱いに対してストライキをもって抵抗した事件)

 

1956

12.26 ソ連引揚11次「興安丸」舞鶴入港(1025人、遺骨24)。樺太地区を除く

 

最後の引揚船。

新正卓著 写真集「沈黙の大地シベリア」 東京 筑摩書房 1995 p.159