4. 第二次世界大戦中のアメリカ日系人の収容から学んだこと 

私が育った戦後の日本には、至るところに戦争の深い傷跡があった 。原爆の残した惨禍。焦土と化した都市の再構築。誰もが物のない時代を懸命に努力して、復興に向かって生きていた。私の家庭内では、ソロモン諸島での海戦海戦で叔父が死没。奇跡的に戦争から生きて帰って来た叔父。東京の大空襲や疎開先での父母の苦労話。戦争の混乱で薬やミルクのないまま死んで行った祖父や叔母や叔父、小さないとこのことなどを父や母から聞いていた。それでも、自分は戦争の当事者ではなかった。母のように食べ物が手に入らない経験や手の施しようのない環境の中で家族の死を看取ること。叔母のように学校が閉鎖され、軍需工場で働かされたことはなかった。私は日本で「戦争を知らない子供達」の一人だった。

だが、日系アメリカ人の夫と結婚して1980年に東京からカリフォルニアに移り住んでから、事情が変わった。日系人の多い教会で「キャンプにいた時」という話題をよく耳にするようになった。初めは「キャンプ」の意味がわからなかったが、やがて、それは森で自炊をする楽しい経験のことではなく、第二次世界大戦中に日系人が隔離された苦々しい体験を意味することだとわかった。高校の時、日本史の時間に習ったことはなかったから、私は時間をかけて、この収容所体験が日系アメリカ人にどのような苦悩をもたらしたのかを知るようになった。

この衝撃的な歴史を少しまとめてみたい。1941128日未明、日本の海軍が真珠湾を奇襲し、第二次世界大戦が勃発した。それにより、アメリカでは日本の血をひいた米国居住者全員にスパイ容疑がかけられ、ルーズベルト大統領が大統領令9066号を発令した。その結果、西海岸に居住していた約12万人の日系アメリカ人(既に米国籍であった日本系の米国人とそうでなかった日本人を含む)は突然の立ち退きを命ぜられ、汗を流して築いた財産の全てをただ同然で手放さなくてはならなくなった。収穫を迎えていた畑では赤い苺が摘まれぬまま残り、日系一世がようやく機械を買い揃えて営業していたクリーニング店も二束三文で人手に渡った。至るところにJAPという差別用語が貼られて、町を歩くのに危険な場合もあった。

ついに家を出る時には一人スーツケース二個だけが所持品として許可され、行く先はと言えば全米10箇所に点在する誰もいない砂漠の真ん中にある収容所だったのだ。鉄条網と銃を持った見張りに囲まれた収容所で、日系アメリカ人は馬小屋のような住まいをあてがわれた。自由のない屈辱の生活に、誰もが言葉を失った。こうして、日系アメリカ人達は一世の祖国であった日本の攻撃により、すでに市民権をとっていた合衆国政府から言われのない嫌疑を受け、人権を踏みにじられる苦渋の体験をした。彼らは敵扱いされないように、大切にしていた世代間での日本語習得さえもあきらめて、アメリカ人として暮らす道を選んだ。戦後、社会復帰がかなってから、彼らは忍耐強く努力を重ね、今ではアメリカの社会を支える堅実な市民として認められている。そのように勝ち取られた日系人の「顔」に対するアメリカ社会の信頼は、日本生まれの日本人がアメリカへ来た時の「顔」への信頼にもつながる。この背景を知る日本人は多くはない。

こうして日本人がアメリカで受ける信頼の基礎は日系アメリカ人によって築かれた事を知った時、私は歴史の重みというものが理解できるようになった。そして、自分は生まれる以前に勃発した第二次世界大戦については、「戦争を知らない世代」ではあっても、日系アメリカ人から見れば、彼らを苦悩のどん底に陥れる戦争をしかけた国、日本の人間なのだ。ならば、自分の存在は戦争と無縁とは言えない。

日本語習得を諦めなければならなかった日系アメリカ人の社会では、戦後の日本の発展の様子や歴史などの細かい情報を得るのが難しい。英語が第一言語なので、翻訳された情報だけが頼りになって来る。ここで私が取り上げている日本人がシベリアに収容された歴史は、本質は違っても、同じ日本の血を引いた人たちの人権が戦争という事態の中で侵害され、隔離生活を強いられたということにおいて、日系アメリカ人の収容経験の歴史との類似点がある。また、どちらの収容経験も罪のない弱者の権利が権力者によって侵害されたものだ。それで、このウエブサイトを英語で発信していくことで、日系アメリカ人の友人達と深いところで理解し合えるようになれれば嬉しい。そして、英語は世界言語でもあるので、更に広い世界へと発信できるようになると考えた。