運命の分かれ目

赤子の手を捻るという言葉があるが、まさにその表現がピッタリの空襲であった。B25,15機の爆撃を受けて咸寧(はむにゅおん)の町が瓦礫の山と化した時に、私も背中に軽い傷を負った。私が連れていた経理の幹部候補生は頭に重傷を負った。私を訪ねてきた東京経理学校の同期生は咸寧城外でB51の爆撃で戦死した。私の隣の部屋の兵科のN中尉も空襲で戦死した。裸同然で軍刀の柄を握り締めながらタコ壷に潜っている私達の目の前を走っていた中尉の姿が眼に浮ぶ。タコ壷は危険だと言っていつも城壁の下に使った頑丈な防空壕に正装をして飛び込んでいたのだった。

ところが、N中尉はある晩、空襲の直撃弾で崩れた防空壕の丸太に頭を打たれて即死した。一緒に埋った二人の下士官は掘り出された時は失心をしていたが、カスリ傷だけで助かった。用心したからといって助かるものではない。といって、ムリをして意気がっても弾は遠慮してくれない。そこに運がある。

私は、はがきを書きながら、これからの身の振り方をつくづくと考えていた。一つは、このまま京城から釜山へ出て便船を見つけて内地に帰ることであった。もう一つは様子がわからないので、とにかく関東軍の司令部のある新京か、貨物廟のある奉天に行くことであった。そして、最後が、あるいは最初かもしれないが、佐藤一家のいる北京にとりあえず行ってみることであった。

こうして、私はとつおいつしながら、備前屋の一室で酒を飲んでいた。「40年かけてここまで立ちあげてきた旅館もこれで終りです。どうぞいくらでも召し上がって下さい、私のおごりですから」と言う主人の言葉に甘えて、十数本の銚子を倒していた。

ああ、これで戦争も終った。よくもまあ生命があったもんだという深い安堵と、それでは一体、あの戦友達の死は何であったのだろうか、あの営々として空襲下で物資の収集に当ったのも何の用に立ったのかという思いで、ただただ、無念の放心の間で心が揺れていた。そして、これからどうするか、ただ迷いに迷っていた。

京城以北の朝鮮、満州、北支の状況がわかっているわけではないだけに、いくら考えても決断がつかない。やっと北京に行ってみようかと思った時に、ガラッと襖を開けて入ってきたのが、同じ軍司令部法務部の二人の将校であった。

彼らは言う。「俺たちも皆目様子がわからないので、とりあえず軍司令部のある咸興に戻ってみようかと思う」と。人間不思議なもので、こういう場合にいわば里心がつくということがあるのだ。その話を聞いているうちに、北京へ行こうという決心はメロメロと崩れて、彼らと一緒に咸興に戻ろうかなという気が募ってきた。部屋を覗いた宿屋の主人は、もうどうともならないから、宿屋をたたんで内地へ引き上げようと思っていると言う。

こういう場合、私達は民間人(当時の軍隊用語でいえば地方の人)のほうがはるかに情報に通じているし、また判断も確かであるということには、なかなか気がつかなかった。

「そんなことを言わないで、もうチョッと頑張ったほうがよいではないですか、少なくとも、もう少し様子を見たほうがいいですよ」と主人に言ったものである。間もなく私達の判断が大変に甘いものだったということを思い知らされることになった。

それはともかく、備前屋の主人を慰め顔に京城を夜発った私達は、篠つく雨の中を、まだ燈火管制をしている暗い列車に揺られて咸興に向かったのである。

夜のうちに38度線を越えた。それは、一つの運命の分かれ道であった。朝鮮の汽車はニンニク臭かった。私はニンニクというものがどういうものかを知らなかった。食べたことはあったと思うが、それが、あの形をした植物の根であることはソ連に抑留されるまで知らなかった。嘘みたいであるが、本当の話である。

7月の終り、同じく京城から汽車に乗って咸興に向っている列車の中で、前に座っていた40歳くらいの男が私に弁当を食べないかという。朝鮮の人であったが、真白い米の飯の片隅に赤い色をした肉がおかずとして入れてあった。

その時、私はお腹を空かしていた。多分何か食べたそうな私の眼が彼の食べている弁当箱に向けられていたのかもしれない。彼は私に差し出した弁当箱と同じ物を食べていた。つまり、当時の食料事情で、米は配給になっていたから、彼は二食分の弁当を用意して持っていたのだと思う。その一つを私にくれるというのである。

私は、汽車の中でもどこでも自分の弁当を食べろといった人に会ったことはなかった。しかも、その朝鮮の人は、見ず知らずの人であったし、私に何らの義理もない人であった。当然、私は断ったが、彼は私に弁当を差し出したままであった。私はお腹が空いていたし、また折角の好意を無にしても悪いと思ってもらうことにした。

ともあれ、その弁当はおいしかった。米も銀シャリであったし、肉もおいしかった。私はガツガツ食べていたのかもしれない。その彼は、嬉しそうな顔で私の箸を使う姿を見ていたが、その肉はトンガラシで辛く、そしてニンニクの匂いがプンとした。

夜汽車というのは、何となく寂しいものである。まして、黒い布で電球を包んである燈火管制下の夜汽車は、である。ゴトゴトとレールの継ぎ目に鳴る車輪の音はまことに単調で、時々ポイントの箇所でガタンガタンと小さく揺れる。またしても、来し方、行く末を思う気持ちでなかなか寝つかれなかったが、酒の酔も手伝ってか、トロトロと眠った。

翌朝、汽車は咸興の駅に着いた。軍司令部に直行する。経理部のある中学校の執務室もてんやわんやであった。皆、ただうろうろしているばかりであって、緊張しながらも足が地についていない。それにまだ、ソ連兵の姿はどこにもなかった。

備前屋の夜の私の判断が運命の別れ目だったなあと思うにつけて、今でも、私の選択が間違っていたことを悔まざるをえない。