ハバロフスクでの慰霊祭

12日、ハバロフスク市の公会堂で慰霊祭が行われた。いつ頃建てられたかわからないが、うち汚れた建物であった。800人ぐらい入れる大ホールにはほぼ一杯の人が集まっていた。この慰霊祭には日本から400人余りの遺族を含めた関係者が出席していた。うち、300人はチャーター便を仕立てて飛んできたという。

公会堂の中はガヤガヤしていたが、席に着いていよいよ開会という時にパッと一斉に電気が消え、真っ暗になった。やっぱりロシアだなあと思うばかりであった。

どうするのかなと見ていたら、やがて火をつけたたくさんの蝋燭が運ばれてきた。電灯とは違うが、場内は薄明るくなって、何とか壇上の人の顔も見分けられるようになったし、かえって慰霊祭にふさわしいような雰囲気さえ出てきた。

太平洋戦没者慰霊協会の主催であったが、式次第について事前に何も知らされていなかったことは、ソ連抑留者の会の会長である私としては不満であったし、何人もの挨拶をする人の中に入っていなかったのもおかしな話であって、当然、会としても抗議すべきところであった。蝋燭の光の中で、式は淡々として進行していったが、松島トモコさんが追悼の歌を唄った時は、感動が込み上げてきて涙を禁じえなかった。彼女は小さい時に、ソ連軍に連れて行かれた父をシベリアで失っていたが、彼女自身も生命からがら満州から引き揚げるという辛い体験をもっていた。しんとした場内に父への思慕の念の溢れた彼女の声が響きわたって、まさに慰霊祭に相応しかった。

式は1時間余りで終った。会の終わりに近づいた頃、どこをどう直したのか、パッと電灯が点った。会場を出た時にトイレに入ろうと探したが、さあ、それが大変なトイレで、いくつか並んだ大便所に扉もなかった。紙がないのは当たり前のような気がするが、扉もないとはいったい女の人などはどうして使用するのかと思った。小さい方もいくつか並んでいたが、半分は使用禁止の札が貼ってあった。ハバロフスク市の公会堂なら、せめて便所ぐらいちゃんと整備しておけばいいのに、やはり、ロシアはその程度かなあと思わざるを得なかった。

公会堂の外は明るい光に満ちていた。慰霊祭の後、2ヶ所の墓地にお参りした。ここは、ロシアの日本人墓地の中では整備されているところであって、交通の便もあってか、日本から多くの遺族などがお参りに来ているらしく、あちこちの墓には花や線香が備えられていた。写真も沢山写した。瀬島龍三氏もいっしょに墓参りしていたが、彼の胸中はどうなんだろうかとふと思った。

夕方、ホテルでバンドを混えて賑やかな会が開かれた。日ロの交歓の意味もあったのだろうか、ロシア側から何十人も出席をしていた。立食であったし、400人余りの日本側の慰霊祭参加者もほとんど出席していた。私や家内は写真にひっぱりだこであった。ここでも松島さんが何曲も唄って、盛んな拍手を浴びていた。

出席している日本人は、ソ連抑留者もかなりいたが大部分は遺族であった。抑留者は50年前に兵役にあった人達だから、一番若い人でも70歳を越していた。もう、二度と来れないと思っている人が多いのではないか。慰霊碑ができたこと、その除幕式に参加できたことは、それだけに大きな喜びであったと思う。

よく13日にの午前、ハバロフスク近傍の墓地にお参りをした。ここも比較的よく整備されていた。そういっては何であるが、ロシア側のいわば展示用ではないかと思う。

墓地に入る前にソ連抑留者議連の会長、江藤隆美議員の提案でアムール河を見に行った。中ロ国境を流れるこの河は、まさに大河であったが、今は、コレラ菌で汚れているという。

てんでに手を浸した河の水は冷たかったが、菌がついて危険だというので、すぐにティッシュで拭いた。

幅が数キロもある河の流れの中、中ロ国境の手前にかなり大きな中洲がある。そこにはダーチャ(別荘)も沢山あるということで、ロシア側から遊覧船のような船が向かっていた。食べるものも乏しいというのはモスコウのことで、ここ極東は違うのかなと思ったが、何せ一つの国といっても、東西9千キロもある国は、とても一つの国という観念では律せられないものがあるようだ。

一高の頃、よく唄わされた寮歌に「アムール河の流域や、氷りて・・・」という1節があったのを思い出した。この河を挟んで対峙している中ロ両国の間には領土をめぐっても紛争が絶えないし、歴史的にも有名な河であるだけに、その水に手を触れたことは、いい記念になるだろう。

ハバロフスクからは全日空機で、何となくホッとする。青森空港でいったん下り、入国手続きをすませ、改めて羽田へ向かった。1週間余りの短いといえば短い旅であったが、センチメンタル・ジャーニーでもあったので、それなりに一仕事を果たしたなという思いであった。