私には、『共産党宣言』("Kommunisten Manifesto”)を割り当てられた。何週間かかったかよく覚えていないが、脚注の多いこの論文のドイツ語の字引を引きながらの翻訳であった。紙が極めて不自由であったので、2、3ルーブルで買った薄いノートにビッシリと鉛筆で書き込んだ。大変な労力であった。
読書会では、それを皆の前で読み上げた。活字に飢えていた人が多かったし、食物や女の話に飽きかけていたのか、沢山の人が薄暗い裸電球の下に集まってきた。狭い部屋の外の廊下に溢れるほど多勢のこともあった。外は雪でも、部屋の中は人いきれでムンムンするようであった。
『共産党宣言』の購読は2回ほどに分けてやった。じっと真剣な顔で聴き入っていられると、自分にもよくわからないまま訳したところにくると汗をかく思いであった。一区切りで質問となる。と、よくわからないところにズバリ質問が飛んでくる。あやふやな答弁に、満足できない表情で頷かれると、本当に穴があったら入りたいくらいであった。ドイツ語は高等学校で習ったが、文甲にいたわれわれには第2外国語であったから授業時間も短かったし、難しい本を訳すには力不足だったと思うが、それでもいい勉強になった。
読書会で他に何をテキストに使ったかはよく思い出せないが、かなり熱心にやっていたと思う。しかし、それも伐木と材木運搬を除いては、所外作業の少ない冬の間のことであって、雪が溶け、春を飛ばすようにして夏がやってくると、農耕の季節となり、途端に忙しくなって、とても読書会というような雰囲気ではなくなり、いつしか開店休業状態になってしまった。最も、原因はそればかりではない。
そもそも、私達が読書会をやろうということになったのは、学生生活の延長のような気分があったからで、学生時代に勉強する機会のなかったマルキシズムを、この際研究しようではないかという、たんなる学究心から出発したのである。
したがって、この読書会から実践運動を期待する気持ちは、少なくとも私には全然なかった。
ラーゲルの鉄条網の中にあって、何が思想運動か。右すれば不当に抑圧されるし、左すればソ連側に利用されるばかりではないか。
収容所には、「日本人クラブ」なるものが存在していた。管理局の情報担当将校との繋がりがあり、その指導を受けていた。シベリアの各ラーゲルは、極めて端的に洗脳を煽ったようであるが、エラブガは将校ラーゲルであるせいか、それほど猛烈な働きかけは見られなかった。それでも、メーデーのデモなどは、ささやかに行なわれていたが、何やら日本人クラブが怪しげな運動を始めるような雲行きになってきたので、私は断固クラブと手を切り、読書会を脱退した。行動を共にする人もあって、読書会は何ということなしに自然消滅してしまった。
私は、『共産党宣言』の後、仲間の何人かと『資本論』の翻訳に取りかかり、第1巻を担当した。今考えても無謀な試みであって、途中まで訳しかけたが、結局匙を投げざるをえなかった。ラテン語なども出てくる膨大な脚注の山を今でも思い出す。