3時間半ほど走ったところで目指すエラブガの町に着き、最初に墓地にお参りすることになった。連絡してあったので、墓地の世話をしているという中年のロシア人が一人現れて案内をしてくれた。
墓地は町の郊外にあった。半ば腐りかかったような白い木の柵に囲まれ、かなり広い場所を占めていた。道路から右に折れると墓地の入り口があった。墓地は高い樹に囲まれた薄暗い光の中にあり、サッサッと風が渡り、炎天下ながら涼しかった。右の隅のほうに弔魂碑があり、墓は85基と聞いた。私達は、一つずつ丁寧に拝んで回った。
弔魂碑はAB両ラーゲルの4分の3が帰国した翌年、昭和23年の春に建てたものである。当時、私は連隊本部(日本側の組織で収容所内の管理事務を統括していた)の給与主任をしていた。私達のなかからラーゲルで亡くなった人達の霊を慰めるために弔魂碑を建てようという話が持ち上がり、適当な石を探して字を刻み、その石碑と台石との間に亡くなった人達の姓名を刻んだジュラルミンの板を埋め込んでおいた。後世に永く遣るようにという思いであった。
その碑の前に私達代表者が十数名並び、深く合掌した。その碑に私達が頭を垂れている姿を手製のカメラで撮ったが、私はその写真を2枚、軍服の上衣の中に縫い込んで日本に持ち帰っていた。
後年、ソ連側が、抑留された日本の軍人軍属で死んだ人はいないというとんでもない嘘の発表をした時に、私が朝日新聞に提供した写真が紙面に載った。弔魂碑まであるという反論の記事に添えてであった。それは何よりもソ連側の発表がでたらめであることを証明する貴重な資料となった。
いっしょにエラブガのラーゲルにいた冨樫君らが、戦後初めて墓地のお参りをする際に、大蔵事務次官をしていた私はモスコウの日本大使に頼んでいろいろ便宜を図ってもらった。というのも、当時ロシア側は例の秘密主義で、国内の旅行を厳しく制限をしていて、エラブガへもなかなか行かせてくれなかったからであった。
私は、冨樫君にこのジュラルミンの板があることを話し、現在はどうなっているか、是非確かめて来てほしいこと、亡くなった人は70余名ではなく、私の記憶では百数十人であることを告げておいた。
冨樫君の帰ってからの報告では、亡くなった人の数は75人で墓地の石枠の数と合っているということであった。ジュラルミンの板は見つからなかったということであったが、碑を台石から離して、ジュラルミンの板を探してみたかという私の質問には、碑が動かせなかったという答であった。
私は、今回の墓参で、一度この眼でそのことについて是非確かめてみたいと思っていたが、それも果たせなかった。というのは、碑と台石が白いセメントのようなものでしっかりと塗り固められていて、とても二つを離して中を覗けるような状態でなかったからであった。何か金テコでも持っていってこじ開ければできない相談ではないと思ったが、とても時間もないし、道具もなかった。
弔魂碑の前では深く頭を下げ、無念の思いを抱きながら亡くなった戦友の霊を慰めた。墓地を取り巻く樹々を渡る風の音を心密かに聞きながら、無事に帰国して50年後、再びここエラブガの地を訪れることができた幸せを思うとまことに感無量で、ただ黙って心から冥福を祈るばかりであった。
墓はあるが、はたしてここに遺体は眠っているのだろうか。まことに疑わしい。抑留中に亡くなった人達は、裸にされて、夏の間に掘った穴に抛り込まれたはずであって、当時は一体一体の墓などは少なくとも作られていなかった。だから、今の墓は、墓参団が来るというので、ソ連側が後で作ったものに違いない。