給与主任の実際上一番大事な仕事は増食の査定であった。ラーゲルの作業は多種多様であるが、労働の負荷にかなりの差があったので、その種類によって食事の量に差をつけるようになった。例えば、材木運搬のように朝早くから雪の中を出勤し、重い橇を馬の代わりにひっぱるという作業は、時に夜遅くまでかかったりして大変なものであった。
そういう作業する人も、作業もなしに部屋でゴロゴロしている人も同じような食事の量ということでは、とても納まらない。そこで、食事の割増をすることになった。
さあ、それはいいとして何%を増やすかが問題となる。それに、材木運搬に出すなら糧秣運搬にも出せ、薪割にも出せ、農作業にも出せ、洗濯やバーニャ(浴場)勤務にも出せというようにあらゆる作業について増食要求が出るようになった。
増食といっても、その割増分の糧秣がソ連側から特別に支給されるわけではない。結局、一人当りいくらというノルマで支給される糧秣全体の中からやりくりする。そうでなくても体力維持ギリギリの一般の食事のいわばピンはねをして捻出するわけであるから、増食にも限度があることは言うまでもない。
しかし、作業に出る者からすれば、そういう事情はわかっていても、おかまいなしに、作業隊の隊長を先頭に立てて交渉に乗り込んでくるのであった。
氷りつく寒さの中での作業で服の中は汗だらけ、それが冷えてどうにもならない寒さ。こういう作業が夕方過ぎまで続くこともあり、作業を終えて帰ってきた隊の隊長が、増食の割増しを要求するために連隊本部に押しかけてくる。目当ては給与主任、つまり、私である。
食堂では班長以下の係りが待機している。カーシャが冷めないように炊事班の一部も残っていなければならない。作業から帰ってきた人は一刻も早く食にありつきたい。しかし、増食の率が決まるまでは、食堂に入らないで、寒い中で待っている。隊長は大きな声で私を責める。私もそうそう譲るわけに参らぬ。鍔迫り合いのような折衡が時には1時間も、それ以上も続く。食堂からは何度も催促してくる。
そのうち根負けして、いくらか譲る。それでも隊長は納得しない。また睨み合いが続く。というようなことは、特に天気の悪い時には毎晩のように起こった。
増食を増やすと一般の人達の食事がそれだけ喰い込まれるわけであるし、一つを譲れば必ず他の同種のラボータに波及することになるし、そうでなくても前例となるから、作業隊の人に頑張られたからと行って、そうそう譲歩するわけには参らないのである。
食堂の灯は薄暗いし、カーシャを盛った食器はブリキでできている。自前の木のスプーンで、それでも温かいカーシャを啜り込んで、空いて泣いている腹に一時の糧を与える姿には、往年の帝国陸軍の将校の矜持のかけらもない。冷たい寝床に潜り込めば、またしても虜因の身を嘆くばかりであった。否、そういう感慨すら消えて、ただ豚のように何も思わず寝るばかりであった。