日本語原稿1

相沢英之氏抑留体験を語る その1  背景 シベリアへ 抑留者の為の現在の活動

インタビュー

実施: 平成26714

場所: 東京 相沢法律事務所

語り手: 相沢英之氏

終戦後ソ連抑留。帰国後、大蔵省主計局長を経て衆議院議員当選9回。

経済企画庁長官等の要職を経て平成17年より弁護士となり今に至る。

95歳の現在も一般財団法人全国強制抑留者協会会長として毎年ロシア政府との交渉に携わり、死亡者を深く哀悼し、生存者とその家族のためにも絶え間ない活動を続けている。

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構成/和文英訳/聞き手: 榊原晴子    

東京都出身。カリフォルニア大学東アジア言語文化学科日本語専任講師。

平成27年に「日本人のシベリア抑留」について日英両語のウエブサイトを出版。

叔父がシベリア抑留者であった。    

japaneseinsiberia.ucdavis.edu

 

インタビュー1より抜粋

結局貨車に詰め込まれて乗せられて行って、どこへ行くかまずわからなかったんですね。言わないから。それで28日ですかね。28日に降ろされて、それで100キロ歩かされた。「死の行軍」て言ってました。

ドイツ人達は、まことにタフな連中でね、心身共に強い。その中にこちらが入ってね、やられちゃったわけですよ。ロシア人と組んでね。

60万人ね、いなくなってね、さっきからの話で不可侵条約やポツダム宣言を違反している、そしてしかも戦争が終わったのに我々は捕虜として取り扱われたのは許せないと。そこでね、私はゴルバチョフ大統領に会いました。エリツンさんにも会いました。団体の代表としてですね、国際的な協定に違反した事をまず謝ってほしいと。そして強制労働に対して補償してほしい、この二つを要求したんですよね。

 

インタビュー1

榊原:こんにちは。相沢さんはアメリカの独立記念日、4th of July がお誕生日で今年で95 歳になられたのですね。先日、ブログに朝はいつも八時に起きられると書いていらっしゃいましたが、朝はいつもどのようにお過ごしになりますか。

相沢:あのね、私は家に出るまで30分かかります。年をとったし、そう急ぐこともないから、2時間とっています。ですから、朝起きて、まず庭をながめるんです。で、緑をみて、空気を吸って。鳥が鳴いていますね。それが一日の始まりです。あとは、もう洗顔してご飯食べて、新聞を読んで。新聞は朝、毎、読、産経、日経、東京と地元の新聞と7つとってるんですよ。

榊原:たくさんお読みになりますね。地元の新聞は鳥取の新聞。

相沢:そうです。日本海新聞。

榊原:それはずいぶんお忙しい朝でいらっしゃいますね。

相沢:そうです。だから、新聞は見出ししか読みませんね。 それから、10時ジャストに出るんです。

榊原:そして、ここにいらっしゃるんですか。じゃ、毎日お仕事にいらっしゃるんですか。95歳で毎日お仕事にいらっしゃる方はそんなにいらっしゃらないのじゃないかと思いますけど。

相沢:そうですね。減りましたね。この間、7月4日の誕生日の時に東京ロータリーに行ってね、その週に生まれた人の祝いをやるんですけど、「95歳だ」って言ったら、みんなが「ウーッ!」て言って。

榊原:本当にお元気な95歳でいらっしゃいますね。

相沢:2020年が東京オリンピックだから、ちょっと見たいなと。

榊原:そうですね。そうなるとよろしいですね。

相沢:そうすると、100歳になるんですよ。

榊原:わあー、本当に!  大丈夫ですよ100歳ぐらい。もうあと5年だけですから。

 

榊原:私は30年間アメリカのカリフォルニア大学で日本語を教える仕事をして参りましたが、土地柄、たくさんの日本からの留学生と交わったり、日本から研修で来られる公立の英語の先生のグループにもお会いしたりして来ました。相沢先生は大蔵省主計局の頃、毎年5千人の小中学校の先生達が外国に出張させるように国家予算を計上されていらっしゃいますね。最近も、日本人の海外への留学生が半減している事についてとても憂慮していらっしゃいましたが、ご自身の豊かな国際体験から、日本人の外国体験について、どのようなご意見をお持ちですか。

相沢:結局ね、この前の日本が負けた戦争にしてもね、世界をもっと知っていたらああいう事には

ならなかった。というので、だからいつも日本だけじゃなくて、できるだけ多くの人が世界っていうもの、いい所も悪い所もね、知ってもらいたいと思うんですね。ですからあの時もね、陸軍が非常に、開戦に、アメリカとの開戦にね、やれと言って、海軍はかなり渋っておったでしょ。それは海軍は毎年一ぺんか、回っているんですね。世界を。知ってるんですよ、だから。まあそうよくは知らんかもしれませんけどね、少なくとも陸軍よりはよく知ってる。それもあるんですね。だから、5千人というのは実はね、田中角栄さんが最近は料理屋のおかみから何からみんなが行ってるのにね、日本の学校の先生がね。ただね、「相沢君ね、毎年1万人外国へ研修に出してくれ」と。1万人ですよ。「いやー、総理。最初から一万人ていうのはね。半分にしましょうよ。」と僕がこうねぎったんですよ。それが5千人なんです。

榊原:ああ、そうですか。でもとてもいい政策でいらっしゃいましたね。 

相沢:ええ、私はね、そうです、そうそう、そのときにね、既に学校長とか教頭さんなんかは旅費を補助する事をしていたんですよ。それを私が言ったら、「相沢君そんなもんやめちゃおうよ。爺やったってしょうがないよ。」って(笑)

榊原:もっと若い方を。

相沢:若い人をやらなきゃ。それで私は「おっしゃる通りだからそうしましょ」って言ってね。それでね、

少し余計なこと言いますよ。二週間ぐらいして文部省がね計画持って来たんですよ。見てみたら朝から晩まで学校に行ったりなんかしてるんですよ。

榊原:ぎゅうぎゅうの日程で?(足したところ)

相沢:そう。それで僕はね、「そんなもんは一つか二つ見ればわかるんでね、その他の事を見ろ」と。榊原:自由にね。

相沢:うん。半分ぐらいは見物やれって言ったんですよ。そうしたら、「いいですか?それで」って。

「いいですか」って、外国を見てもらうっていうことはそういうことじゃないか、って。

榊原:そうですね。それはなかなかいいご意見をおっしゃって下さいましたね。

 

榊原:相沢さんは大蔵省の重要ポストを経て、政治家になられ、衆議院議員として当選9回、そして経済企画庁長官をされた後、更に85歳で弁護士活動に入られたという驚くべき長い素晴らしいキャリアをお持ちですが、今日は、その前の期間である青春の6年間、戦争とシベリアの収容所で過ごされた頃のご体験について伺わせて頂きたいと思います。

相沢:ええ。

榊原:おそらく思い起こす事もおつらいと思うのですが、戦争を何も知らない私達の世代のために、

お話頂けますでしょうか。また、このインタビューは英訳されますので、シベリア収容の事を殆ど知らない英語圏の人々に、ここから、シベリア収容のご体験に関する歴史的事実をお話し頂けますと大変ありがたいのですが、よろしくお願い致します。

相沢:あのね、戦争は、昭和20年か、1945年ですか。終わって、8月15日ですか。終わって私はその当時北朝鮮にいたわけなんですよ。北鮮にね。戦争が終わったから我々もこれでもう帰ると。そういう時にロシア軍が入って来てね。結局現地の協定で、まず在留邦人を全部返すと。それが帰るまでは鉄道沿線で我々は警固にあたると。そこで1945年の秋に船に乗っかっていよいよ内地に帰ると思ったら、西の方へ行くね、北斗七星が東の方に見えるんでおかしいな、って言ってる内にポシェットに着いたわけですよ。

榊原:ポシェットはロシアの港ですね。

相沢:はい、それで我々は文句言ったんですよ。日本へ帰るはずのところだ、と言ったらね、「ここで燃料を積むところだ」と嘘言ってね、それでおろされちゃったんですよ。つまり、騙されたわけですけどね、それで我々としては、戦争が終わったんならばポツダム宣言にもあるように、韓国が在留邦人を日本に返すという事になっているんですね。しかもソビエトはそれにサインしているしね。

榊原:あのう、日ソ中立条約もありましたね。不可侵条約が5年間ありましたね。

相沢:はい、ありました。それを破るっていう事。しかもポツダム宣言ではみな、戦争が終わったら返すと。だからみんな支那でも何でも帰したわけですね。一人ソビエトだけが結局満州とか北鮮とか樺太とか対馬から60万人の兵隊を連れていったでしょ。それはポツダム宣言に違反しているではないか。我々はそこで、まあ、論争があるんですけども、捕虜ではない、抑留者だ、という事を主張しているわけですけれども。だから大変に騙されて連れていかれたっていう事。しかも、寒いですからね。寒い中で労働をやらされたと

榊原:その労働を初めにされたのはエラブガっていう収容所だと伺っておりますが、相沢さんのお書きになりました、この「ボルガは遠く」というこの貴重なご体験のご本がありますが、非常に詳しく戦争が終わった頃の状況やどのようにエラブガの収容所に行かれたか等が書いてありますので、これはまた後ほど一部英訳させて頂いて後ほどウエブサイトの方に載せさせていただきますが、今日はエラブガの収容所に行かれるまでのご自身のお気持ちや状況をお話し頂けますでしょうか。なんか23日間も貨車に詰め込まれて

相沢:そうです。結局貨車に詰め込まれて乗せられて行って、どこへ行くかまずわからなかったんですね。言わないから。それで28日ですかね。28日に降ろされて、それで100キロ歩かされた。

榊原:それはもう雪の中の行軍で、零下何度ぐらいだったんでしょうか。

相沢:あの頃は10度から15度ぐらいだったんじゃないでしょうか。

榊原:零下10度か15度。かなり雪も深い所を….

相沢:そうですね。 大体2メートル。

榊原:2メートル? そこを4日間歩かれたんですか。

相沢:人の歩くような雪の道はありましたけどね。オオカミが見える所を走ってるんです。そしてそこをずっと4日間歩いて、

榊原:しかも、どこへ行くかわからない、4日歩くのか1週間歩くのかわからない中で歩かれて。倒れられる方もいらしたでしょうね。

相沢:そうね、倒れてね、道のまん中で寝ちゃってね。それで、寝るんですよね。寝ると死んじゃいますからね。で、起こそうとするとね、起きないんですよね。「ほっといてくれ」って。で、「おい、おい」って言ってね、でも起きない。その内こちらがくたびれて来て。そんな事してる内にこっちがいかれちゃいますからね。で、「死の行軍」て言ってましたけど、まあ、その行軍で死んだ人はそういなかったですけどね。

榊原:でもずい分足の指や、凍傷で手足を失われた方が多いという

相沢:凍傷でね。結局切る事になるんですね。腐っちゃうからね。

榊原: エラブガの収容所では、食料事情はどんなだったんですか。

相沢:一応ね、その「ボルガは遠く」にも書いてありますけどね、ノルマっていうのがあるんですね。

ノルマ通りにくれたらね、それはおそらく3000カロリー以上になってるんですよ。ところが、そうじゃないんですね。例えばね、肉300グラムって言ったらね、肉じゃない、骨なんですよ。

榊原:肉は誰かがどこかでとってしまう?

相沢:ええ、配給だから、肉としては来ているけれども、

榊原:実際には食べられない。

相沢:そうそう。だから仕方がないから、骨をなたで割ってそしてスープにして食べたんですけど。

で後は、砂糖はちゃんとくれたんですよ。

榊原:でも、その分配が大変でいらっしゃいましたね。

相沢:そうそう。

榊原:みなさん砂糖を欲しがられたでしょうからね。

相沢:それが大変でした。ですから、こういう事。ドイツの将校の住まいだったんですね。

榊原:ああ、エラブガの収容所は、前はドイツ人の将校の収容所だった?

相沢:その連中は、まことにタフな連中でね、心身共に強い。その中にこちらが入ってね、やられちゃったわけですよ。

榊原:じゃ、食料なんかもそちらの方へたくさん?

相沢:ロシア人と組んでね。

榊原:組んで?

相沢:ドイツ人を追っ払えって言って、「日独戦争」ていうのをやったの。そしたら負けましてね。「八時間労働制を確立せよ。」「食事をノルマの通りによこせ。」ってね。そういった事が聞かれなければ、ゼネストすると総代会で主張したんですね。そしたらそれ嗅ぎつかれてね。まあ、スパイがいたんでしょうね。翌日解散になって、責任者はどこかに連れていかれてしまった。

榊原:そんな事があったんですか。エラブガの収容所に収容されていた方々は、日本の軍隊の中では将校クラスの方、一万人?

相沢:そうですね。AB両ラーゲリで一万人ですか。関東軍の南北に近いでしょうね。 それで、私のところには5000人、Aラーゲリにおりました。Aラーゲリ5000人ね。将校の中で、佐官級が400人ぐらいいましたかね。  将官級はいませんでした、一人だけだった。だからあとは尉官級。

榊原:その場合には、他のラーゲリ、シベリアの収容所ですと強制労働も色々な労働がありましたよね。ですから、実際の肉体労働とか、森に入って行って木を伐採するとか、色々なものがあったと思うんですが、このエラブガの収容所では、実際にどんな物があったんですか。

相沢:それは、後で帰って来てから色々な本を読んだり話を聞いたりすると、我々の収容所は将校収容所であったので、モスクワの直轄だったんです。ですから、よそよりはまだましだったっていう事です。それでも、零下20度までは所外作業をしたんです。零下20度以下になるとやめる、と。それで、向こうさんからね、進んで、「進んで」ですよ。経済五カ年計画に協力する、「ラボータする」事に署名しろ、って来たんですよ。だから向こうもジュネーブ条約に気を使って、将校ですから、強制労働はさせられないから、じゃ自発的にしろって。

榊原:ああ、実際には強制労働だけれども、自発的に五年間手伝うという事を承諾させられた訳ですか。

相沢:うん、五カ年契約に協力しろと書いてあったから、それはできない、と断ったんですよ。それでは自活のためにする事についてはどうだ、って言うからね。自分達が飯食うための畑とかね、食堂とかパン焼きとか洗濯とか発電所とか自動車の修理だとかそういうものはしょうがないだろうと。それは署名したんですよ。

榊原:じゃあ、主にそういった形式の労働をされていたんですね。

相沢:ええ、建前は自活っていう事でね。

榊原:でも、実際にはそれ以外の事もなさっていたという事ですね。 収容中に色々な形でソビエトの文化に触れられたと思うんですけど、日本との文化の違いを色々お感じになったと思いますが、何か思い出になるエピソードをお持ちでいらっしゃいますか。

相沢:そうね、ま、ロシアの事はね、日本はロシア文学が好きな人がたくさんおったから。私もトルストイとか何とか、結構読んでたから。

榊原:相沢さん、たくさんお読みになりましたよね。なんか大学の時に読破されたとか。

相沢:いえいえ、読んでますけどもね、ともあれ、そのう、ソビエトは社会主義でしょ。で、我々はそういう国ではない。能力に応じて働いて、働きに応じて分配すると。それはいいんですけどもね、だけど実際に見てみると、ロシアはプロレタリアートと農民との国というけれどね、やっぱりプロレタリアートの方が優先しているんですね。ですから、農民の方が恵まれてない、という事は明らかなんですね。丁度我々が収容中に、貨幣の切り替えなどもやったんですけどもね、その時に10分の1に切り下げる、ルーブルをね。その時に賃金は下げなかった。工場の賃金はね、下げない。だからロシアっていう国はまずプロレタリアートをまず優先にしている国だなと思いました。

榊原:エラブガの収容所には2年間いらっしゃいましたね。

相沢:2年半ですね。

榊原:その後でタタアル共和国のカザンに移られて、糧秣等の給与主任をなさって、カザンの収容所で「ダモイ」、ダモイというのは帰日の事ですね、日本へ帰るという。

相沢:そうです。モイは「私の」ですよ。ダは「to」ですよ。

榊原:ああ、じゃ「to me」ですか?ダモイはロシア語で…..

相沢:そうです、そうです。「to my home」とかね。

榊原:ああ、それがダモイという事なんですね。それで「ダモイ日本」という言葉がたくさん資料の中にありましたけれど。

榊原:ダモイをカザンの収容所で迎えられましたね。

相沢: 要するにね、“to mine”なんですね。

榊原: “to my home? ”  “to my place”でしょうかね。 ああ、そういう意味なんですね。

 

榊原:これは?

相沢:煙草入れ。

榊原:ここに富士山がありますけど。これはAですか。相沢のA?

相沢:そうです。ドイツ人が作った。

榊原:ラーゲリにいたドイツ人の人が相沢さんのために作った?開かない。開かないですね。

相沢:ええ、くっついちゃって。

榊原:これが煙草入れ。煙草はマホルカを吸っていらしたんですか。

相沢:マホルカだけじゃなくてね、途中からは口吸い煙草を。

(シベリアより持ち帰った時計を見せて)珍しいのは、ロシア兵はみんな時計をとっちゃうんです。私はそう思ったもんだから、ガラスをこわしちゃったんです。そしたら、「カプーツ」と言って、盗らなかったんです。

榊原:じゃガラスがないから価値がないと思って持っていかなかったんですか。

相沢:そう、だから残ったんです。ハミルトンです。

榊原:これが、日本からお持ちになった時計です。ハミルトン。じゃ、また日本に持ち帰られてからガラスを作られた?

相沢: そうそうそう。それでこれは支那から持っていったカミソリ。ジレットですよ。

榊原:中国から。はあ、ジレット。 ウラジオストクに最終的にダモイのために集められた方達は三つぐらい検査場があって、そこでどんどんシャワーを浴びさせられたりする間に

全部物がなくなって行ったっていう事を読んだんですが。

相沢:これはなんとか持って帰ったんですね。

榊原:よくご無事に!(笑)

相沢:ロシアに行って帰って来たんですよ。

榊原:すごいカミソリですね。なんか、大切に箱に入れておかないと。

相沢:あとその他に写真なんかも持って帰ったんですけど、そいつはちょっと見つからないんですよ。ここへ縫ってね。後ろに。

榊原:あ、後ろに。

相沢:ここに、えりに縫って。

榊原:はあ〜。色々な事をお考えになって。

相沢:もう一つはこのバンドの裏にね、袋ぬって。

榊原:そうすると調べられない。

相沢:そう。たたいたって、わからない。

榊原:ありがとうございました、こんなに貴重な物を見せて頂いて。

相沢:持っちゃいけないって言われたナイフも作って持っていたんですけどね。あれは惜しいな、名前が入っていたんですよ。

 

榊原:持っていらした軍刀はとられてしまったっていう事を伺いましたが、残念でらっしゃいましたね。

相沢:そうなんですよ。みんなあの頃ね、戦争に行くからって言って、お家十代の刀なんかを本当に仕込んでね、私も鎌倉時代の軍刀を。

榊原:鎌倉時代の?

相沢:ええ、正宗ってありますね。鍛冶がね。その正宗に十人刀商にいいのがいる、その中の国宗

っていうのを持っていたんですけど、それも取られました。

榊原:そんな価値がロシアでわかるかどうかは疑問ですね。

わかってるんですよ。

榊原:わかるんですか。どこへ行ってしまったんでしょうね。

相沢:だから、僕はね、去年、今年もいや返す事になっていますからね。遺留品はね。ゴルバチョフさんとの協定にそう書いてあるんだから。そういったら、「見た事ない」と。

相沢:それでこの間の答えはね、あれは折って溶かしちゃったと。

 

榊原:相沢さんはたくさんのブログをお書きになっていますが、2013年の926にご自身がお書きになったブログがありますが、その内容をお読み下さるかお話し下さるかして頂いてこのインタビュー1の締めくくりとさせて頂きたいのですが。

相沢:なんて書いてありますか。

榊原:こんな事をお書きになりましたけど。

相沢:ああ、60万人ね、いなくなってね、さっきからの話で不可侵条約やポツダム宣言を違反している、そしてしかも戦争が終わったのに我々は捕虜として取り扱われたのは許せないと。そこでね、私はゴルバチョフ大統領に会いました。エリツンさんにも会いました。団体の代表としてですね、国際的な協定に違反した事をまず謝ってほしいと。そして強制労働に対して補償してほしい、この二つを要求したんですよね。

榊原:返事はない。でも、それをまた9月にロシアまでいらっしゃって、モスクワでいらっしゃいますか。

相沢:そう、最後まで行ってやろうと思っています。

榊原:それはもう、本当に徹底した姿勢でいらっしゃいますね。それはご自分の為とみなさん捕虜でいらした方の為でいらっしゃいますね。本当95の間の年輪を刻まれた生の声を聞かせて頂いて、ありがとうございました。