相沢英之氏抑留体験を語る その2 抑留体験・これから
インタビュー 実施: 平成26年7月14日
場所: 東京 相沢法律事務所
語り手: 相沢英之氏
終戦後ソ連抑留。帰国後、大蔵省主計局長を経て衆議院議員当選9回。
経済企画庁長官等の要職を経て平成17年より弁護士となり今に至る。
95歳の現在も一般財団法人全国強制抑留者協会会長として毎年ロシア政府との交渉に携わり、死亡者を深く哀悼し、生存者とその家族のためにも絶え間ない活動を続けている。
www.zaidan-zenyokukyo.com
構成/和文英訳/聞き手: 榊原晴子
東京都出身。 カリフォルニア大学東アジア言語文化学科日本語専任講師。
平成27年に「日本人のシベリア抑留」について日英両語のウエブサイトを出版。
叔父がシベリア抑留者であった。
japaneseinsiberia.ucdavis.edu
インタビュー2より抜粋
相沢:私は4ヶ月ほど監獄にほおりこまれたでしょ。あの時は本当に困ったわけですよ。ロシア人だけですから、回りはね。だからもう煙草の火借りるのもうまくいかなかったら。少しロシア語を勉強しようと…。
相沢:私共が交渉に行った事で、例えば抑留者の個人個人のファイルなども50万ですか、見つけたし70万枚のカードも見つけたし、今はもう少し各収容所における亡くなった人達の名簿をやってもらっているんですよ。
榊原:相沢さんが全国抑留者協会を立ち上げて会長になられてから、国会の予算の中に抑留経験の体験の記録を残すために「平和記念事業特別基金」が推進されて「語り継ぐ労苦」などの貴重な資料が発行されましたね。それまでは公的な記録はなかったわけですよね。
相沢: ええ、400億。
相沢:初めはね、ソ連から帰って来たというと、赤だとか何とか言われて就職が難しかった時期もあったんですから。それで確かにね、三年抑留の間にね、農地改革なんかあったでしょ。不在地主の土地を取られたりね、それからやはり就職先が他の人にわたっちゃったり、そういう点ではかなり不利だったけれども、逆にはその中でしっかりやらなきゃ、と思った人も多いんですね。
榊原:でも、ご自分は原因を作られたわけではないのに、やはり日本ていうのは「恥」は「恥」として、語れないという文化がありますね。
相沢:それはね、残った者の責任だ、と思いましたね。生き残った者ね。我々がしなきゃ、誰がやってくれるかって。
相沢:結局ね、一番の気持ちね。残された時間は短くない。それで世の中に奉仕すると。それから自分が働いた記録を残しつつ何か後の人に参考になる事を書き残したいという気持ちがもう一つがあるんですね。
相沢:みなさん忘れたいっていう気持ちがあるけど、忘れられるもんじゃないですからね、これは。ただみんなで話し合って言える事はね、あれは最低の生活だったと。心身共に最低ですよ。だからああいう経験をしたからには 、とにかく今苦労があってもね、あれを越えて来たんだから何とかなるだろう、っていう風に思うって言うんですね。仲間で話しているとね。それだけですね、プラスになったのは。それからやっぱり三年間一緒に暮らして来たもんだから、学校友達以上に親しい関係になりましたからね。
相沢:我々はもう戦争はしたくない、すべきじゃないと。これはどうしてもいいたい。あの膨大な破壊ですよね。本当に人類にとってもったいない事ですよね。だからできるだけ戦争にならないようにお互いにすべきだという事が一つ。
相沢:そうそう、そしてね。まだ我々も(満州にいた日本人達に起きた悲惨な現実について)必ずしもよく知ってない。我々よりも苦労したんですよ。少なくとも我々は軍隊という団体の守りがあったんですよ。だから団体で行動したと、まだまだ仲間があった。満州の民間の人達は本当にバラバラでね。酷い目に本当にあったと思うんですね。で従って、そういう人達がどういう苦労をしたかっていう事は充分に残されてない。だから私一つどういう事があった、どういう苦労があったという事を記録としてもっともっと調べておくべきだと思いますね。
インタビュー2
榊原:「シベリアインタビューの1」の中では、相沢先生のシベリア抑留中のご経験についてお話頂きましたが、この「シベリアインタビュー2」では、日本へ帰国なさってから、この抑留経験にどのように向き合って来られたかかを中心にお話頂きたいと思います。
相沢さんは、既に多数の外国語をこなされますが…色々ロシア語、ドイツ語など。これからも英語など、もっと上達するように努力したい、とお書きになってらっしゃいましたが、何時頃から、ロシア語はどのように学ばれましたか。
相沢:あのう、変なんですけどね、僕は支那に行く時に、北京にはロシア人が結構いると聞いたものだから、「ロシア語4週間」という本を持っていったんですよ。で北鮮に来て、ソ連に捕まったと。それが役にたったわけですよ。「4週間」はみんな見たいものだから半分に切って、 前の2週間とか後の2週間でずっとラーゲリの中をまわって。
ほど監獄にほおりこまれたでしょ。あの時は本当に困ったわけですよ。ロシア人だけですから、回りはね。だからもう煙草の火借りるのもうまくいかなかったら。少しロシア語を勉強しようと…..。
榊原:その時は、その4週間の本を持っていらしたんですか。監獄の中で。
相沢:ないです。
榊原:じゃ、回りのを聞きながら?
相沢: ロシア語のノーボエガゼッタかな、その新聞を持って入った。その新聞を毎日読んでですね、同じことを読んでですね。
榊原:音読なさったんですか。
相沢:そう。毎日毎日読んでいると、いくらかわかって来るんですね。
榊原:はあ….. 。ずい分忍耐強いですね。でも、お好きなんでいらっしゃいますか、語学の方は。
相沢:まあね、きらいじゃないですけども。英語は勉強しておったんですけど。それから仕事でね、毎日ロシア人と折衝してましたから。嫌でも覚えちゃうんですね。
榊原:それはエラブガがでの。
相沢:はい。本などは苦手ですけど、普通日常的にしゃべるのはね。できるようになったんですよ。
ドイツ語も同じなんですよ。ドイツ人と一緒に。
榊原:ああ、収容所の中にいたから。あ、そうですか。
ここ20年間の間毎年9月に抑留者協会の代表としてロシアに行って今年もいらっしゃる と伺いましたが、その時はロシア語でお話しになっていらっしゃいますか。
相沢:いや、ロシア語は使いませんよ。危ないですから。きちんとした通訳をつけて。
榊原:じゃ、きちんと折衝が可能なようになさっていらっしゃるんですね。
相沢:記録全部残していますから。
榊原:ああ、わかりました。そのう、モスクワにいらっしゃる時には、どのような事を交渉なさっているんですか。
相沢:さっきも申しあげましたが、今行っているのは、平成2年か3年ですか、ゴルバチョフ大統領が来られた時にですね、協定結んで三つの事を決めたんですね。それは名簿をね、事に死亡者の名簿をよこす、という事。それから墓地の維持管理をすると。それから、遺留品を返すと。この三項目を約束したわけですよ。それを確実に実行してもらいたいと。特に名簿について、色々やかましく言って、事実ね、私共が交渉に行った事で、例えば抑留者の個人個人のファイルなども50万ですか、見つけたし70万枚のカードも見つけたし、今はもう少し各収容所における亡くなった人達の名簿をやってもらっているんですよ。
榊原:それは実際に向こうでやって下さっている方があるわけですね。
相沢:そうです。こちらからも人を出してね。
榊原:そのようなお仕事をして頂いたのでと思うんですけど、これは私の叔父がシベリアに抑留されておりました時の抑留者カードを2年前に入手する事ができました。
相沢:ああ、70万枚の内にあったんですね。
榊原:厚生労働省の方から、その中に入っているかどうかわからないという事だったんですけど、問い合わせた結果、このような。
相沢:どこにおられたんですか。
榊原:叔父がおりましたのは、今のウラジオストク、その頃はウオロシロフ、それからウスリンスクにいました。この沿海地方にというところですけど。それで、この資料が手に入って初めて、叔父がこの二つの所にいたという事がわかったんです。これまで、誰も何もわからなかったんです。
相沢:各人別のファイルはもらえた?それぞれ一人づつファイルになっていますよ。
榊原:はい、ファイルもございます。これ、かなり細かい、このように管理されていたという事がわかります。
相沢:人によってはね、病院の記録なんかも全部残っているんです。
榊原:でもこういう事が、後になって、叔父は他界しておりますが、 わかったという事は、それでも折衝の御陰だったと思いますので、ありがとうございます 。
相沢:ただね、6万人亡くなった内で名簿で上がっているのは4万なんですね。2万人はまだわかんないんですね。それで今もロシアに対して名簿の提出を提出してもらいたいという事を、必ず行く度にしているんですけど。それで内務省と外務省と軍事中央古文書館とかね。
榊原:軍事中央古文書館ですね。
相沢:色々ありそうな所を全部探してもらっているんですよ。
榊原:そうですか。それはなかなか忍耐強いご努力が…..。
相沢:そうなんですよ。それが、もう一つ障害になったのはね、ソ連は15の国に分かれちゃったでしょ。全然そういう日本人がいなかった所もありますけど、大体いるんですね。でロシアとは何とかうまく行ったかな。
相沢:でも分かれた時はね、話をするとね、それはやってくれるけれども、連絡してくれるけれども、今は外国なんですよね。
榊原:そうですね。
相沢:それを言うんですよ。国が違っちゃったからね。
榊原:自分達には責任がないというわけですね。あのような広大な国がそういう風にして分かれたわけでそういう障害が起きるわけですね。
榊原:でも広い国のあちこちに点在して収容所がありましたものね。
相沢さんが全国強制抑留者協会を立ち上げて会長になられてから、国会の予算の中に抑留経験の体験の記録を残すために「平和記念事業特別基金」を設立されましたね。
相沢:ええ、400億。
榊原:400億! 推進されてこのような「語り継ぐ労苦」などの貴重な資料が発行されましたね。それまでは公的な記録はなかったわけですよね。
相沢:クラスとしてはこれは個人の記録ですね。19冊じゃありませんか。
榊原:はい、そうですね。このような記録を発行して頂いたおかげで私のような個人も抑留者の方々についてご苦労を学んだり、今回もこのサイトの方に扱わせて頂けることができるようになりました。本当に公的になりにくかった抑留の史実を公的な形に残して下さったという事は画期的な事だったと思いますので、本当にありがとうございました。なかなか、こういう経験はみなさんお話になりにくかったんですよね。
相沢:そう、初めはね、ソ連から帰って来たというと、赤だとか何とか言われて就職が難しかった時期もあったんですから。それで確かにね、三年抑留の間にね、農地改革なんかあったでしょ。不在地主の土地を取られたりね、それからやはり就職先が他の人にわたっちゃったり、そういう点ではかなり不利だったけれども、逆にはその中でしっかりやらなきゃ、と思った人も多いんですね。
榊原:なかなか大変なことでしたね。でも、ご自分は原因を作られたわけではないのに、やはり日本ていうのは「恥」をとても、「恥」は「恥」として、それについては語れないという文化がありますね。
相沢:そういう事。それでね、それで外国人にしてみると、日本が「抑留」とかね、「「捕虜じゃない」とか「抑留だ」とか、こだわることについてはね、「何でそんなにこだわるんだ、精一杯戦って戦って負けたんだからお手あげしたって仕方がない。後はもういっぺん、復讐してやればいいんだ」とかね。
ドイツ人なんてそういうんですね。「俺たち負けたんじゃない。数が足りなかったんだ。今度もう一回、復讐しなきゃいかん」と、こういうんですよね。
榊原:まあ、そういう風にはならない方がいいですけどもね。でも文化の違いですね。その文化の違いのせいで、日本の場合には公表される事が時間がかかりましたよね。だからそんな点で、こんなお仕事を…..。
相沢:ですから我々ソ連抑留者のこういう運動を始めるのもね、本当はもっともっと早く始めるべきだったんですよ。あなたがおっしゃるようにまさにそういうような理由があったものですからね。みんなは帰って命があっただけでもよかったと。そういうような事で運動っていうのはしなかったんですよね。
榊原:そうでしょうね。でも、本当に抑留というご経験がおありになるなかで、日本の国家のための色々なお仕事に関わられて、とても公的なお仕事の中でお忙しかったと思うんですが、その中を縫うようにして、本当に強い意志で抑留者のお仲間の補償やシベリアで無念の命を落とされた方々のご家族の為に、墓参のために動いていらしたとか、そのような事の背景にどのようなお気持ちがあられましたか。
相沢:それはね、残った者の責任だ、と思いましたね。生き残った者ね。我々がしなきゃ、誰がやってくれるかって。
榊原:さて、話は変わりますが、航空便で私の家に 「タタアルの森から」という貴重な短編集を送って頂いてとても興味深く読ませて頂いたんですけど、これですね。「タタアルの森から」という相沢さんがお書きになった短編です。相沢さんは、高校生の頃は小説家志望でいらしたそうですね。
相沢:そうです。小説家になりたかった。
榊原:大学にいる頃に希望を変えられたんですか。
相沢:いえ、大学に入る時にね、どの学部にするかっていうんで結局文学部にいるか法学部にするかっていう事で、どうも文学部に行って小説家になると飯が食えそうにないからっていって。
相沢:芸術はそうですけれどね、努力したらいい結果が出せるっていうんじゃない。やっぱり才能がないとダメだって。
榊原:才能と時の運と両方かもしれませんけど。
相沢:それでね、どうも飯食うわけにはいかないなと思って、それならば、ならばね、
そういう文化とか芸術とかが育つ環境作りの方に回ろうと思った。
榊原:ああ、そういう風にお考えになったんですね。でも、とても素晴らしい読みでのある短編集だったんですけど、いつ頃お書きになりましたか。
相沢:それを書いたのは帰ってすぐなんですよ。
榊原:ああ、シベリアからお帰りになってからすぐ。
相沢:ええ。二十歳代なんですね。
榊原:発行はすぐなさいましたか。
相沢:その時私役所にいましたからね、そういう物を出すことがいいかどうかっていうのもあって。
榊原:時期をお考えになって。
相沢:ええ、ずうっとずらしちゃったんです。
榊原:じゃ、お出しになったのは何年になるんでしょう。
相沢:相当後じゃありませんか。
榊原:これによりますと、平成4年ですね。22年前。
相沢:ああもう卒業しちゃって議員になってからですよ。書いたのは大蔵省にいた時。
榊原:この六つの短編の一つ一つが、抑留が精神的にもたらす違う側面を浮き彫りにし、それぞれの主人公の語りを通して、複雑な心の機微がリアルに伝わって来ました。中でも「塀のある窓」は、相沢さんご自身が4か月間監獄の独房に入れられた時のいつ殺されるかわからないような不安の中での恐ろしい体験が基になっていますね。題になっております「タタアルの森から」 では空腹と隣り合わせの作業労働の中で人間性が失われていく捕虜生活や依然と続く軍隊の日本の階級制度に嫌気がさした主人公が、更に辛い重労働を自分から志願して別の収容所へ移って、 珍しく恋の体験を短い間した後に、それでも作業中突然死を迎えるという筋書きですたね。とても聡明な若者が突然に自由を奪われた中でも懸命に考え続けて、懸命に幸せを追うという姿がとても印象的だったんですが、この短編集の中には、「手記」とは違った問題提起があって、それが心に深く残ると思ったのですが、相沢さんは、そのような事を意図されましたか。
相沢:よくあれは自分の事を書いたんだと言われるけど、それは間違いなんで。私はね、監獄に入れられた事でもわかるように、まあ、戦犯じゃないけど容疑だったもんですから、外のラボータには、 は出されたことないんですよ。いっぺんも。
榊原:ラボータというのは?
相沢:労働。でも、一つには今のロシアに対する批判が書いてあるでしょ。こういう社会主義の社会っていうのはいずれも崩れるよっていう事を言いたかった事と、それだけを言うんじゃなくて、要するにロシアの何ていうかな、若い人たちの情勢も書きたかったんですよ。
榊原:自然なまま、ロシアの国の中を、お知りになれたロシアをお書きになりたかったというわけですか。
榊原:「小説家」と「政治家」の共通点は「人間に興味を持っている」という事だ、五代理矢子さんとの対談でずっと以前におっしゃっておられますが、また小説を書かれるご予定がありますか。
相沢:いや、「雀百まで踊り忘れず」って言うのがあるんでね。
榊原:百はあと5年ですよ。
相沢:書きたいと思うんですけども。書いたのはまだあるんですよね。ドキュメンタリーを一冊書いたのがあるんですよ。出そうかと思ってる。
榊原:そうですか。それは是非お出しになって下さい。
相沢:それは私が支那におったでしょ。中支におった時の一年間の事をね。これは必ずしもドキュメンタリーじゃないんですけどね。でも最後にまとまった物を、小説を書きたいなとは思っているんですけどね。まとまってないんですけどね。
榊原:でもきっと今お書きになれば、またの相沢さんのお気持ちがこう、そこに溢れ出て、とても豊かな表現をなさるのではないかと思うんですが、
相沢:だけど今ね、笑うかもしれないけど、カラマゾフの兄弟っていうのをね。
榊原:ああ、そうお書きになってましたね。
相沢:あれ5巻でもうすごい小説なんですよ。
榊原:500ページ。
相沢:いや全部で2500ページ。読んでるんですけど、丁度今4巻目に来たけどね、だけどすごいですね。ああいう、ものすごく息の長いね、やっぱりあれは日本人じゃああはいかないなって思いますね。ま、書けたら書きたいです。
榊原:是非、お待ちしております。本当に95年、考えられないんですけど、95年の人生体験の中を色々な体験をなさっていらっしゃったんですけど、ご自分がどのような精神で生き抜いて来たと思われますか。
相沢:結局ね、一番の気持ちね。残された時間は短くない。それで世の中に奉仕すると。それから自分が働いた記録を残しつつ何か後の人に参考になる事を書き残したいという気持ちがもう一つがあるんですね。それから現実に弁護士としての仕事をしているんですけど、色々な話が持ち込まれて来るんですが、それに相談相手になって奉仕するという気持ちね。
榊原:でも鳥取の青英塾はその一つでいらっしゃいますね。
相沢:それは若い人で私の長い経験からして感じたことを少しでも若い人に参考になればいいな、という気持ちですね。
榊原:そんな事に直接接する事のできる方はお幸せですね。鳥取の方は。さ、それでは今この時点で振り返られた時に、シベリアに抑留された3年間というのはどんな時だったとお思いになりますか。
相沢:さあな、みなさん忘れたいっていう気持ちがあるけど、忘れられるもんじゃないですからね、これは。ただみんなで話し合って言える事はね、あれは最低の生活だったと。心身共に最低ですよ。だからああいう経験をしたからには、とにかく今苦労があってもね、あれを越えて来たんだから何とかなるだろう、っていう風に思うって言うんですね。仲間で話しているとね。それだけですね、プラスになったのは。それからやっぱり三年間一緒に暮らして来たもんだから、学校友達以上に親しい関係になりましたからね。お互いに助け合うと、そういう気持ちも湧いて来たし。そういう点はプラスだったと思いますけどね。
榊原:そのような最低の生活とおっしゃいましたけど、私達にとっては想像を絶するご体験だったと思うんですけど、そういうご体験を抱えながら、相沢さんは日本の国の財政、あるいは人々の健全な生きる環境に関してとても責任のあるお立場から様々なお仕事を達成して来られたと思うんです。で、今、この世界を、この日本を含めた世界をもう一度見渡す時に、「戦争と平和」という事について、私達これから未来を築く、未来を生きていく者達に、何かアドバイスをして頂けますでしょうか。
相沢:我々はもう戦争はしたくない、すべきじゃないと。これはどうしてもいいたい。あの膨大な破壊ですよね。本当に人類にとってもったいない事ですよね。だからできるだけ戦争にならないようにお互いにすべきだという事が一つ。ただし日本の、各国の立場、日本の立場もそうですけど、戦争があったら、我々の経験から言ってもね、絶対に負けちゃならないと。だからそこの辺が難しいことなのね。お互いに負けちゃならんと負けちゃならんと言って武器をと軍備を、力と金をつぎこんでいってうまく行くかっていう事に問題がありますね。そこは外交の問題だと思うんですね。だけど、日本の国、我々の経験から言いますと、負けるような戦争はしない。戦争をするなら必ず勝つ、そういう心構えがいるんじゃないかと思いますね。
榊原:あの、それはどこかでお書きになった事を読んだ気がするんですが、つまり戦争をする、しない、という事よりは、相沢さんご自身が例えば満州で日本が負けた後の、満州にいた日本人達におきた悲惨な現実とか、本当に目でご覧になった、体験した苦しさと悲しみをご覧になったからこそ、あれをもう一度起こしてはいけない、というお気持ちだとおっしゃいますね。
相沢:そうそう、そしてね。まだ我々も必ずしもよく知ってない。だけど本当に我々よりも苦労したんですよ。少なくとも我々は軍隊という団体の守りがあったんですよ。だから団体で行動したと、まだまだ仲間があった。満州の民間の人達は本当にバラバラでね。酷い目に本当にあったと思うんですね。で従って、そういう人達がどういう苦労をしたかっていう事は充分に残されてない。だから私一つどういう事があった、どういう苦労があったという事を記録としてもっともっと調べておくべきだと思いますね。
榊原:そういう事を通して、そういう哀しみをもたらすような出来事を二度としては起こしてはならない、というお気持ちでいらっしゃいますね。本日は本当にお忙しい中を長時間にわたって貴重なお話を聞かせて下さってありがとうございました。