シベリア抑留体験記

シベリア抑留体験記
北海道 宮崎維新

1. 敗戦と抑留

私達は、世界大戦の最中に青春を迎え、青空のような希望の色も緑の安らぎもすべてのものが、お国の為と灰色に塗り変えら れ、学業も半ばで別れに涙をためながら、「聖戦」と言う名のものに召集され、祖国愛に燃え、勝てぬ戦いとも知らず青春を駆けて行った。青春は再び戻らな い。年老いても老いに甘えず、残りない春秋を楽しむことである。

終戦間際に、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、怒濤のごとく満州、樺太、千島に攻め寄せた。虜囚になった北国の戦士は極東シベリアに移され、厳寒に身を凍らせ、飢えに苦しみ、数万の将兵が死んだ。多くの若者は帰国の夢を見て苦役に耐えた。

オリオン、高くかかりて、澄み渡る。厳冬の星座、仰ぎ見る。配所の月、又悲しき。

音も無く、異国の街、夜気、深々として身に浸む、悄然として、この地をのぞむ、遠く野犬吠え。

ニコライの夜長、ああ、この凍れる雪を踏み、寒風に立つ、憔悴せる、虜囚の姿。

暁に祈る、只、帰国の一日も早からむを、慕わしき、父母、懐かしき兄弟、溢れ出る涙、忽然として凍りぬ。

月日は過ぎ、年はめぐれども、祖国に帰れる望みもなく、友が倒れてもなすすべもなく、死期を悟った病床の古年兵が、「これを家族に」と差し出した観 音様のお守り、その胸の薄さと手の細さに涙がこぼれた。友が死んでもその骨を拾うことができない。荷物のように無造作に遺体が運び去られた。ソ連兵が遺品 を漁り、時計、万年筆、鏡と女の写真をニヤニヤしながらポケットに入れた。

荒涼の原野シベリア、朝日に夕日に望郷の日々、苦難に耐えた幾星霜。

復員船の汽笛が鳴った。山が見えた。日本の山だ。港が見える。街が見えた。日本の旗だ。沸き上がった歓声。溢れる涙。美しい故郷の山河。懐かしい同 胞の顔、眩しかった。日の丸の旗のはためき。ああ祖国よ。帰らぬ人の話に、迎えの人々とともに泣いた。抑留の日々と戦友の死と。

一枚の赤紙で集められた兵隊は、皇国のためと謳われながら、意地悪な古参兵の扱いに耐え、惨めな思いに耐えたのも、苦難を共にした友がいたからであ る。受難の友は慰め合い、互いに 涙を拭き合って耐えたのである。起居を共にし、その思想も好みも超えて、肝胆相照らす仲になった友なのである。

その友は三人、今も健在でいる。ときどきの出会いが楽しいひとときでもある。

人間は必ず一度は死ぬものだ。そうならば、陛下のため、国家のために名誉ある戦死することが男子の本懐ではないかと教えこまれた。

忘れがたい思い出の中から

平成三年(1991年)九月一日

原隊 第88師団第306連帯、通信中隊、有線班(樺太大泊)

階級 陸軍二等兵  昭和二十年六月二十八日入隊、八月十五日終戦

虜囚とは、四方二重の有刺鉄線の中に囲まれ、常に監視の中にあって、他国に生命を委ね、粗食、寒さ、労働、栄養失調、燃えないペーチカ、仕切りのない共同便所。その中でようやく生きている兵隊である。そして、生きて祖国に帰っても、何一つ報いられない人のことである。

1)大正十四(1925年)五月六日、亀田郡銭亀村宇根崎で出生。昭和七年四月、宇賀小学校入学。昭和十一年一月、樺太大泊群遠淵小学校に転校。昭和十五年三月卒業。

2)同年四月、単身上京し、日中働きながら、夜間予備校に通い、翌年四月、2. 同年四月、単身上京し、日中働きながら、夜間予備校に通い、翌年四月、夜間小学校に編入。

3)昭和十六年二月、太平洋戦争始まる。学校を卒業し昭和二十年三月、帰国。同年六月、現役兵として入隊(大泊)。昭和二十年八月、終戦。同年十月、シベリア抑留。

4)昭和二十二年八月、復員。翌二十三年四月、砂原村役場に就職。昭和六十一年十二月、退職。

 

2. シベリア抑留の夏冬の思い出

凍傷で二ヵ月、六ヵ月過ぎて栄養失調で二ヵ月入院した。入院の際には入浴させられ、体の毛は全部カミソリで剃られてしま う。シラミの発生防止のためだそうである。十六歳くらいの見習看護婦に、血管注射を失敗しながら四、五回もやられたときには閉口した。私達を試験台にして 実地勉強をしているらしい。失敗するたびに私達の顔を見て、申し訳なさそうな顔をしていた。愛らしさがいっぱいであった。

トイレにも困った。男女の区別がなく、しかも一カ所しかない。知らないでトイレの戸を明けて女医さんに叱られたことがあった。(昭和二十一年)

「フショー、フレーブ、エース?」トラックに乗った私達を見上げて、「みんなパンを持ったか」と収容所長が聞いた。「エース,エース」私達は口を揃 えて叫んだ。「ラボータ ハラショー、 スコーラダモイ」と言いながら、所長は黄色い歯をむき出して笑った。エンジンがかかるとトラックは真夏の朝の爽や かな空気を大きく揺すぶって行った。まだ朝の眠りを楽しむ白壁の家、工場へ通うハンマーをぶら下げた黒い顔の労働者、小豆色のペーチカの煙筒、カーテンを 開ける寝巻姿の太ったマダム、ちょろちょろと豚の子。早朝の風物を点々とかっとばし、トラックは走り続ける。トラックはレンガ工場に着いた。ここが私達の この一週間の仕事場であった。

「ズラステイ」感情のない、お世辞のような私達の太い声。「ズラステイ」「ズラステイ」と女達のははつらつとして明るい澄んだ声。作業はすぐ始めら れた。遠くウクライナから送られて来た女囚達であった。彼女達は近くのコルホーズ(集団農場)で働いていた。彼女達は私達と同じように、二重の鉄条網で囲 まれた収容所に押し込められて、毎日通って来ていた。ドイツとの戦争で敵に通じた国事犯の女達であるという。三ヵ月ぶりに来た農場は一面緑であった。昼の 休憩。雑嚢に入れて来た黒パン一切れが絶対的な私達の昼食であった。だが、この貴重な昼食の一切れの黒パンを朝食とともに一遍に食ってしまう者もいた。彼 らは飯盒半分のスープだけである。

馬車追い(馬車を使い物を運搬する人)がレンガを運搬に来た。運ぶ枚数によって駄賃が支給されるとのことである。こちらから「フショー(もしも し)」と言葉をかけると、とたんに「ヨッポイマーチ(馬鹿野郎)」と返って来た。聞いてみると、言葉をかけられると、今数えている数を忘れてしまうからだ と言う。私が積み終えてから数えられるからと教えても本当にしない。積み終わってから数を数えてやり、レンガを下ろしたときに改めて数えてみなさい、と 言ってやった。帰って来て「ハラショー。ハラショー」と言って、握手を求めて来た。

次の日も積み終わってから、「ヤポンスキーソルダート、イジェスダー(日本の兵隊、こっちに来い)」と言う。「イショーラス(もう一度、教えてく れ)」と頼んで来る。不思議そうに数え方を見ていた。数え方が本当にわかったかどうか。彼等は45x12x8という方法を知らないようだ。

馬の個人所有は許されていないので、国から貸し付けされているとのことである。

帰れる日は果たして来るだろうか、再び故国の土を踏むことのできる日が、我が家の畳の飢えで大の字に仰向けになって、誰からも文句を言われることな く好きなことができる日が果たして来るだろうか。閉じたままの瞼の間からにわかに涙がにじみ出て、照りつけられた頬に伝わって落ちていった。(昭和二十一 年八月)

仕事の休みの日には、寝台の隅から哀調を帯びた歌が聞こえて来る。すると、みんなが一緒になって歌い始める。

宵闇迫れば悩みは果てなし

乱るる心に映るは誰が影

君恋し、くちびるあせねど、

涙はあふれて今宵も更けゆく

仕事の休みの日には、寝台の隅から哀調を帯びた歌が聞こえて来る。すると、みんなが一緒になって歌い始める。

宵闇迫れば悩みは果てなし

乱るる心に映るは誰が影

君恋し、くちびるあせねど、

涙はあふれて今宵も更けゆく

 

3. 労苦の実態

昭和二十年十月半ば、樺太大泊港より貨物船に乗せられ、十月十八日頃、シベリア北東部のニコライエフスクに抑留された。ここ はアムール河口にあり、呼称は不明である。ここの収容所は、北千島、北満、樺太の各部隊で、およそ三千人くらいいたと言われていた。特に北満の部隊の中に は、開拓義勇隊で十六歳ぐらいの少年が混じっていた。逃げ遅れたため、軍服を着せられ兵隊の員数合わせに連れてこられたらしい。

我々がここに到着した日を最後にアムール河は結氷し、交通機関は春の雪溶けまでない。最初の作業は収容所のペーチカに使用す る薪の伐採で、見たこともない大きな鋸を使って一定の数量をノルマにされ、夕食の量に影響した。また別の作業は、アムール河で結氷した大きな丸太を氷を 割って引き上げ、製材工場に運ぶ。氷上の冷たさは筆舌に尽くし得ないものであった。初めての冬は過酷の一語に尽きた。凍傷患者が続出したため、マイナス三 十度以下の時は外作業中止となった。しかし、気温が幾らか上昇すると製材工場へ丸太の搬入。船舶の錆落とし、これはカンカン虫と呼ばれていた。

終戦後、冬用に着替えした肌着、股引、ゲートル、軍服、軍靴など、すべて中古品であった。ロシア人はシラミを嫌うので、入浴 (十五日に一回ぐらい)時に洗面桶二杯だけのお湯であかを洗い落として終わる。この間およそ二十分。ここを出ると洗濯殺菌した古い下着に取り替える。脱い だ下着は洗濯後乾燥室の高温で蒸され、シラミを殺してしまう。不思議にその後シラミは帰国まで発生しなかった。下着はすべて日本軍隊のものであった。

河の氷が溶け舟が入港と荷役作業が始まる。昼夜の二交代作業となる。雑穀、小麦粉、砂糖、乾燥野菜、煙草類で、最も多いのは パンの原料の小麦粉である。腹の虫が動き出すと袋に穴をあけて飯盒に入れ、河の水でかたく練ってそのまま食べる。二、三日続けると下痢をおこしてしまう。 樺太から来た石炭船に船倉から大きなモッコに入れて岩壁に引き揚げる。機械を操作するのはロシア人である。終るとどの顔も黒く焼けている。

市街の道路は雪解けになるとぬかるみとなるので土を掘り起こし、そこに砂利を敷き、山からの切り出した石を並べていく。大工と左官の経験者は住宅建築に、他に技能のない者は穴掘り作業をやらされる。ノルマを与えられるが、100パーセントを達成することはできない。

 

4. 生活管理

「働く者は食える」の言葉を信じて我々は次第身を削っていった。しかし夕食として与えられるものは、大豆、鶉豆、コーリャ ン、馬用の麩。日本製飯盒一つを四人で分け合い、間もなく六人分となった。分配の対象者は固唾をのんで見つめている。これに鰊と野菜少々の塩スープ飯盒半 分だけである。

大豆、コーリャン、麩など主食となるものは三日に一度ずつ変わっていく。朝食と昼食は300グ ラムの黒パンと鰊のスープ飯盒半分だけで、このスープに野草のネギ、ヨモギなどを入れて食べていた。朝食と昼食は夕食後一度に支給されるが、就寝前にみな 食べてしまう。翌日の朝昼はスープのみである。飢餓の前に理性が失われ、疲労し尽くした肉体にさらに拍車をかけて腹の虫が泣き続け、眠れぬままに世が明け る。

腹の虫は人間の道徳を奪い、隣人のパンまで盗み、作業に出ると市井のロシア人と時計、万年筆、鏡をパンと交換する。馬鈴薯の凍ったものを拾ってくる。人間性は食物の妄想の鬼となり、故郷を偲びながら空想の世界以外に空腹を満たす場がない。

 

5. 民主運動について

共産主義,民主市議の波も特定の人たちをのぞく、食糧事情が落ち着くまで侵攻してくることはなかった。ここは民主運動の無風地帯で、壁新聞、「日本新聞」の回し読みの程度であった。

 

6. 死亡者

マイナス30度以下になると寒さで作業はできない。ましてアムール河ではマイナス40度 以下になる。ただ立ったまま足踏みを続けるほかない。この作業で凍傷者が続出した。私と同年兵であった玉川光弘君は全身凍傷で、昭和二十年十二月二十五日 死亡した。他にけが、急性肺炎、栄養失調、壊血病などで死亡者があり、帰国までおよそ二年間で百五十人くらいと聞いていた。ロシア人が玉川君の死体を無造 作に荷物のように運び去り、雪の原野に穴掘りをさせられた同僚の兵があった。墓標を建てたという話は聞かなかった。

 

7. 住居

収容所は、一般地方人で懲役十年以上の者がシベリア送りで入る刑務所として使用されてきたということであった。我々が入るために補修された跡があり、丸太式の造りで、内外とも寒気を防ぐため土壁で塗られていて、室内に入ると凌ぎやすかった。

冬期間、一棟に五百人ぐらい入っていたようだ。集団生活で、人の体温と建物内部を温める幾つかのペーチカに薪が使用されてい た。厠は建物から三十メートルくらい離れた場所に深さ三メートルくらいの穴を掘り、その上に板を渡しただけで隣人との仕切りは全くない。建物の長さは三十 メートルぐらいであり、三十人が一回に並んで済ますことができる。

 

8. 休養と医療施設

メーデー、建国記念日、戦勝記念日等を休日とし、仕事もない。収容所内に日本軍医とロシア人医師が勤務する医務室があり、入院の患者は街の病院に運ばれる。

私も凍傷にかかった一人であった。右足第一指が三センチほど切断された。この経過を見てから左の方も手術されると思っていたが、切られずに済んだ。 結果的に右の足指も切断する必要がなかったものである。医療設備、器具、医師の技術は日本と比較にならないほど幼稚で、聴診器も子供のラッパのようなもの で患者の胸に当てていた。私は凍傷で二ヵ月、六ヵ月を経て栄養失調で三ヵ月ほど市内の病院に入院した。

 

9. 私物品

武装解除後、使役のため兵舎を離れたすきにロシア兵に置き引きされた。また入院を繰り返しているうちに私物はほとんどなくなり、帰国時には軍隊時代の水筒だけだった。

 

10. 追憶

昭和六十四年一月七日、昭和天皇崩御。長かった昭和の時代が終った。各報道機関はその崩御の模様を報じ、その波乱に満ちた御生涯と御遺徳を偲んだ。

翌日、年号が平成と改まり、新しい時代が始まった。皇居二重橋前広場を埋め尽くす人々をテレビで見て、思いを新たにした。皇居前広場に順番を持つ多 くの人々、全国各地から天皇の死を悼み悲しむため上京された人々も多かった。戦時中のように上からの命令によった行為ではなく、自らの意志で、陛下の御生 前の慈愛に満ちたお顔を思い浮かべて、立ち並ぶどの顔も心からの悲しみに満ちていた。その悲しみの行列を眺め、国民の素直な優しさに触れたような感動を覚 えたものである。明治、大正、昭和一桁生まれの方々が多いように思われた。

戦争という地獄を体験、敗戦の惨めさを嘗め、九死に一生を得て、抑留地、シベリアから復員した当時を思い出す。長い捕虜生活に苦しみ、栄養失調になり痩せ細って、ようやく祖国にたどり着いた復員兵は、戦火の祖国を眺め呆然となった。

遠い昔、昭和十八年、連合艦隊司令官山本五十六元帥の国葬に遭遇した当時を思い起こし、複雑な気持ちであった。山本元帥は非戦論者であった。この戦 いは二年もてばと心配された人であった。元帥の死は、昭和天皇も大変心を痛められたそうであった。そして、それから後の戦況を特に心配されていた。不可侵 条約締結国であり、まさか攻めて来るとは想像していなかったソ連軍が、にわかに我が国に宣戦を布告、満州の関東軍と樺太の国境を突破、樺太の一部は戦場と 化した。昭和二十年八月十五日、終戦の玉音にもかかわらず、国境の真岡付近では戦火が続き、多くの人が犠牲となった。

緊急避難のため大泊港に集結、乗船の列をつくり、引揚船に遅れまいと数千人の人々が黙々と桟橋を渡っていった群集の列、その人々は皆、故郷を追われ てゆくのであった。樺太の人々は、東京、広島の人のような悲惨な体験がない。それまで豊かで平和な暮らしを続けてきた者であった。何故故郷を去らねばなら なかったかは判然としないまま、複雑な思いだった。思えばあれから半世紀。

しかし、これが運命の分かれ道となり、後日、私がシベリアへ捕虜となる身とは考えてもみないことであった。運命の分かれ道は次のことでも引き起こさ れた。母と弟を乗せた船は無事稚内に到着したが、次の日に大泊港を出港した泰東丸は、ソ連潜水艦の攻撃を受け留萌沖で沈没させられることになるのである。

平成2年7月、45年ぶりで第二の故郷、遠淵村を訪問した。ソ連名を「ムラボエボ」と呼ばれていた。浜のハマナスと湖の流れは昔と変わらずにいた が、昔の街並みは跡形もなく消え去り、文明の世から見放された様相を呈していた。昔のまま日本の領土であったら、ここは観光レジャー基地としてもっと発展 したことだろうと感慨を新たにした。その昔住んでいた白系ロシア人の部落も跡形もなく消え失せていた。

村に残っていた人の話では、ソ連兵が進駐してから行方不明となってしまったとのことであった。帝政ロシア時代の白系ロシア人は、日露戦争後ここに住みつき、日本人と一緒に生活していたため、赤軍とは相入れない運命の人々のようであった。

清涼な空気を吸い、遥かな地平線をあかずながめていた。大正の御代に生まれ、昭和の御代の激動に耐え必死に働き、戦争、捕虜という地獄を見た老兵達 が集まり語ることは、兵役と捕虜の話に尽きた。函館と北海道、内地の各地に樺太時代の友がいる。友の連れ合いが一人二人と欠けて行く。それは残された友と して悲しいものだ。妻を亡くした友や友の連れ合いの本当の悲しさや淋しさを、夫婦健在の者はいまだわからない。明日は我が身と思っても、本当の孤独は体験 した者しかわからない。

これから幾年生きられるか、誰もわからない。それまでの命を大切にしよう。

親を失い親のありがたさを知り、夫や妻を失い、家庭にとっての連れ合いがどんなに大切なものだったかを思い知り、友を失って友の懐かしさを思う。星空は満席、我々の席は空いていない。だが、いつ空席ができて迎えに来るかもしれない。

ふと、父母の姿を思い浮かべた。母は昭和三十六年九月十日、不慮の事故により六十五歳でこの世を去った。今、私は母の年を超えてしまった。昭和の初 め樺太に移住し、貧乏に耐えながら八人の子供を養育し、引揚げの辛苦をなめたことは私の心に焼き付いている。葬送の日、母の棺に縋り泣いた。それから九年 後、父は孤独の生活をしながら、姉と兄の世話を受けながら一年間、闘病生活を続けた。昭和四十五年十二月二十一日、大空の星が一つ二つ消え始めた早朝の出 来事だった。八人の子供に見送られながら、七十八歳を一期として母のもとへと旅だっていった。

今、八人の兄弟姉妹が健在でいられるのは、父母のご加護だと思っている。

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平和の礎
シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦15

平成十七年三月二十二日発行

編集発行:
独立行政法人
平和記念事業特別基金
東京都新宿区新宿二丁目六番一号
印刷:文唱堂印刷株式会社