私のシベリア物語

私のシベリア物語

岐阜県 葛口 宗一 (旧姓 中村))

1. 地獄 極楽 指の先  

十月、十一月と寒くなるにつれ、収容所では飢えと寒さで病人が続出し、作業人員が極度に減少してくると、三ヵ月ごとに実施される身体検査が、ある日 突然実施されることがある。労働係将校は足りない人間を充足するため、体力回復した人間を一人でも多く確保したいため、その日の作業出発を送らせる検査となる。

普通で考えられるような健康診断なんてものではない。疾病の発見や、体力の強弱を見て予防措置をとるなんて、そんな生やさしいものでもなく、労働の適格性を目的として行われ、自分たちのこれからの三ヵ月の運命を決めるものであると言っても過言ではない。

検査によって一級、二級、三級と区分され、その区分によって労働の軽重や種類が決まることになっていた。一級は例外なく重労働に従い、二級はやや軽度、といっても種類によっては一級に準ずる作業もあり、いやでも毎日作業割当され、追い立てられる。

三級は収容所内かソ連収容所関係者の官舎雑役の軽作業。ノルマもなく命ぜられたことを適当にやっていればよい、という。もう一つの区分として通称 「オカ」と呼ばれる虚弱者で、労働もままならない者。この「オカ」に対しては労働が免除される。一級常連者にしてみれば、来る日も来る日も重労働の毎日、 生まれつき頑健にできている自分の体が恨めしくさえなり、三級か「オカ」と判定された者は重労働することなく、悠々自適の生活を送ることができる。地獄、 極楽の判定はどのように決まるのだろうか

シベリアも十二月ともなれば氷点下の毎日が続く。暖房もない部屋で丸裸となり、毛虱の駆除のため腋毛や陰毛もすべて剃り落とし、無毛となった陰部が 寒さに縮み上がったまま自分の順番を待つ苦行で、全身に鳥肌が達、体の震えを押さえるのに苦労する。検査するのはたいてい女軍医が日本人軍医を立ち会わせ 検査する。まず一人ずつ女軍医の前に立つと頭の上から足の先まで一瞥する。下手な日本語で「マレーミギー」と命令、回れ右をすると臀部の筋肉を指先で軽く 摘み、さらに脛を親指で押してみる。それが検査の全てであった。それで一体何が分かるのか、と言いたくなるようななんとも頼りない検査。その間わずか数 秒。脛を押し、へこんだままの脛の持ち主はまず合格。極楽行きの切符を手に入れることとなる。

震える体を抑え順番を待ち、自分の番となる。前の人と同じように親指が脛を押す。「駄目かなー」と思うとき、もう一度押される。二度押し、少し考え た女軍医は、三本指を出す。「三級」だった。徴兵検査では第二乙種で、体重も甲種に七キロも足らない五十三キロ。体重計で計ったら恐らく今は四十七、八 か。日本人軍医は「栄養失調だなー」と衣服を身につけているときつぶやいてくれた。。

検査の翌日から生活は一変する。起床は同じでも、朝早くから作業に出る必要もなく、適当な時間に食事する。ノルマによって差別された量でなく、平均の標準量。追われるような忙しさでなく食事できるこの違いに、もう一度脛を押し、へこみの薄い戻りを見て自分自身納得する。

「オカ」の人たちは完全休養だけれど、三級は所内の清掃、軽い使役が本部から指示される。三日ばかり過ぎた日、本部の副官に、「お前、パンの配給係をやってみないか」と言われ、思わず、「やらせて下さい」と飛びついた。

誰しも食物関係の作業場には魅力があり、炊事場やパンの配給係なんてものは志望者が殺到する。その中で指名されたとは、地獄の中で仏に会ったような もの。前の二人が検査で二級となり作業要員になったためお鉢が回ってきたものか。このパン配給係のチーフはドイツ人。捕虜になってもう五年というすべて知 り尽くした収容所のボスの一人。言葉は分からないが、身振り手まねで要領を覚え、人々の羨望の中で三ヵ月の天国にいるような毎日。栄養失調といっても特別 のことをする必要もなく、黒パン、白パン、砂糖、つまみ食いするだけで日に日に痩せ細ったからだは回復してくる。

夢のような三ヵ月が過ぎ、また身体検査の日が近くなる。完全に元の身体に戻っていることに諦めに似た気持ちで、食いだめたお陰かも分からないが、あの桃源郷にも似た百日に近い日々のお陰で生かされたことと、今でも忘れることができない。
 

2. 民主運動に参加しよう

抑留生活も既に三年目に入っていた。ダモイ(帰国)することがすべての人の願いで、もっともらしい話がしきりに取り沙汰されてはいるが、いつの間にか消え、また新しく聴き込んだ話で望 みがふくらむ。そんな繰り返しの中で、三年目にもなってくると、不自由な生活の中にもいくぶんの自由さを見つけ出すようになっていた。

検査の度に点々と人間関係が変わり、昨日の友はいずこかに去り、また新しい友の組みながら、とにかく帰ることがただ一つの願い、望郷の念ますます強 まってくるばかりだった。収容所も度々と変わり、新しく変わった収容所は三千人を超す大収容所、炭坑作業の町。大部分、全部と言っていいくらい三交代でヤ マに入る。ただ一部、二百人ほどがアカリの職場、朝から夕方まで常時昼間の作業。並んだ場所が良かったのか、幸いにその数少ない中隊に入る幸運に私は巡り 会った。作業現場はトロッコの車輪造りの鋳物工場、でき上がった製品を外に運び出すだけの仕事。ノルマはあったが流れ作業なので、特別意識することもなく 適当にやっていれば余裕の時間もでき、内職にアルミを溶かしスプーン作りに熱中することができたのもそのころだった。

そうした新しい生活の中に、収容所に民主化運動という動きが生まれ始め出した。収容所における生活の中で、初めのうちは労働係将校が実権を握り、過酷なノルマに泣かされたが、国全体が余裕が出始め、給与も定量の食糧分配を受けるようになっていった。

食べ物が最低限度得られてくると、次いで欲しい物は読む物だった。この願望は、日本語で書かれた「日本新聞」という日本人向けの新聞があることを 知ったが、中隊の幹部たちは「こんなのはアカの宣伝だ、兵隊たちに読ませるとロクなことはない」「紙不足の折、公平に分配しろ」と言って、マホルカの紙巻 用として小さく刻んで分配してしまう。もともと日本の軍隊では、兵隊たちが一般の商業新聞を読むことなど考えられなかったので、書かれている記事が共産主 義思想を吹き込むような新聞を読ませるわけにはいかない、というのが本音だったのだろう。
 

煙草の煙に消える「日本新聞」ではあったが、そろそろ収容所内で「生活改善の声」「機構問題」などが議論されるようになってきた。もっとも寄せ集め のこの収容所で民主化運動という新しい動きよりも、炭坑の作業が三交代で帰れば眠りにその時間を取られる人が多く、まだ「日本新聞」の普及率は貧しく、関 心を持つ人が少なかった。ソ連側の意図や指導があって始められるものには違いないのだが、ソ連の巧妙な点は、この運動は、捕虜たち自身の発意で始められ、 自発的に進めている、という体裁をつくり上げ、徐々にこの方向に導いて行ったことだ。しばらくしてから多数の本が貸与され、本部の委員会室に備え付けられ た。私の記憶にある書籍は「日本共産党史」「マルクス レーニン主義」「唯物弁証法」「ロシア共産党史」などであった。

炭坑作業隊と違って夕方には収容所に帰れる私は、多少体力と時間に余裕ができたので、本部の図書閲覧室に行っては、幾日も遅れて届く「日本新聞」や備え付けの図書を読むようになった。

1948年春、この地区で第一回政治講習会が開催された。講師はハバロフスクの日本新聞社から派遣された人。激しい口調で「天皇制打倒」を叫び、 「共産主義の旗の下に結集せよ」「資本主義の走狗、反動を赦すな」などなど、私などはただ呆然と聴いているだけだったが、この講習会に参加した日から程な く、勉強?ぶりが目にとまったのかもわからないが、私とあと二人、地区の政治学校行きを命ぜられて行くことになった。

翌日、身の回りの物をつけ、雑嚢一つで同僚二人と出発、地区の中央ラーゲリに向かう。各地区の収容所から集合した者三十人ぐらいだったと記憶してい るが、毎日八時間の集中授業、夜は討論とグループ会議。グループは戦前の経歴にしたがって分けていたが、私は中学卒業以上の組に入り、それから一ヵ月間の 短期速成教育が始まった。

学校のスタッフはソ連及び日本人職員で構成され、日本人職員は、ハバロフスクやモスクワの長期学校で教育を受けた人々が教えてくれていた。元大学で 教授だったという人が、「収容所で俳句会をやろう」と言い出し、週に一度集まっていたら、これがソ連側の目にとまり、結局解散させられた。「私はハバロフ スクの長期政治学校で三ヵ月勉強し、今『ソ同盟共産党小史』を皆さんに講義していますが、自分たちの命令を聞かない者はソ連では反動であり敵なのです。適 当に勉強して下さい。」と小声で話してくれた。

ここの政治学校の魅力は、あらゆる労働からの免除と恵まれた生活条件だった。今までいた収容所と比べれば格段にいいし、収容設備も大きく、大きな食 堂もあって、給与も決められた量で境遇としては満足のいくものだった。速成思想教育の教本として渡された日本語版の「ソ連共産党小史」の外、ソ連を知るた めの勉強材料、資料の日本語の印刷物が講座の度に配られ、昼の講義に続いて、夜は討論の時間に充てられる毎日だった。

もう五十数年前のこと、あの日、あのころ共産主義理論をどのように教わったのか、記憶は薄らぎ、点として残り、線につながらない。ただ、競って自分 がいかに「よき社会主義者」になったかを政治将校に見せようかと思う元気あふれる改宗者の多きに驚き、戸惑いながらも終りの日までついていった。

 

3. 歌い続けた「赤旗の歌」

1948年5月、地区講習会を終えて収容所に帰ると、次の日から民主化のための活動を命ぜられる。活動といっても「日本新聞」の普及、宣伝に中隊を 回り、作業から帰って来た人達に読み、解説するぐらいのこと。「日本新聞」は煙草の巻紙にするのが一番の得策と思う人達は、内容には少なからず抵抗感のあるその段階では、親しむには程遠い。

幸いなことに収容所は寄せ集めの集団で「俺たちは同じ抑留者であって、人間として対等なのだ」という声が強く、階級章を外すことの運動によって収 容所の雰囲気が変わって、民主化の芽が出始める頃だった。労働条件は変わらないけれど、給与の内容は著しく改善され、重労働の炭坑作業員にはノルマ達成率 により特別給与制度がとられたことは、ソ連側には「仕事さえして生産が向上すればいいので、日本軍の組織をたくみに利用しておこう」といった状態で、通り 一遍の政治宣伝をしていただけのようだった。

労働条件や食い物や、ソビエト側管理者の酷薄などは、収容所によって多少の差があっただろうが、私たちの収容所生活では日本人同士の「民主化運動」という奇妙な名称で、昨日までの戦友を告発し合う日本人同士のあの凄惨な戦いはこの段階ではなかった。

夜の短いシベリアの夏が再びめぐってくる。短い夏の夜は午前三時を過ぎるともう明るい。七月初めのある早朝「ダモイだ、氏名発表があるらしい。」収容所が大歓声に包まれ、やがて本部前に第一次帰還者七百人の氏名が読み上げられた。

身体虚弱者を優先し、各中隊に数人の民主化運動者、私もその数人の中に入ることができ、ダモイ切符を手に入れることができた。今度こそどうも本当らしい。身支度ができると朝食の黒パンもそこそこに整列、住み慣れてきたラーゲリの門を足取り軽く出発した。

駅には有蓋貨車が引き込み線に長く連結され私たちを待っている。二段ベッドにおさまり盛夏の車行で、シベリアの原野は緑に包まれ夏の陽に燃えてい た。けれども、ダモイ列車が極東圏に入るにつれて「日本新聞」の記事が嘘でないことが分かり始めた。停車駅ごとにアクチブと称する日本人が乗り込み、私た ちの「民主化」の度合いを測る。こちらもそれなりの意識ある者が論戦に対抗、歯が立たぬと見るや、激烈な決まり文句で、「こんな意識の低い者では日本に帰 すことはできない。懲罰大隊に繰り入れなければならない」と捨てゼリフを残していった。自分がまだ帰れぬ腹いせか。異郷で同胞の通過を送り迎えする心情な どカケラも見えなかった。

何処に連れられて行くのか分からないとき見たバイカル湖が今日はなんと美しく、岸辺のさざなみが祝福の歌を奏でるように聞こえてくる。車窓から見な がら民謡と流行歌のすべてを歌い続けた我がダモイ列車は、ここに来てレパートリーの変更を余儀なくされた。停車駅で乗り込んできたアクチブ達が「お前たち は『赤旗の歌』を歌えるか」と大いばりでどなり「俺たちが教えてやるからみんな覚えろ」と言いながら下手な歌の指導をして、次の停車駅で降りて行った。
 

みんな至極のんびりとした気分で語り、歌い合っていたのが一変、急遽、各車両から歌のうまい兵隊が集められ、歌詞を書き、特別訓練が始まる。日本海 側が指呼の間に近づくにつれてその歌声に拍車がかかり、シベリア軍団の冷酷な眼差しへの怖れをないまぜに、私たちは「通行手形」の偽造に熱中した。

「民衆の旗赤旗は、戦士の屍を包む 四肢固く冷えぬ間に、血潮は旗を染めぬ」

だれもかれもが真剣だった。歌詞を見せ合いながら、かみしめるように歌う者、歌詞を知らないものは口だけパクパクしてついていく。

「しっかりやれよ。帰されたら二度と帰れなくなるぞ。」

「高く立て赤旗を、そのかげに生死せん 卑怯者去らば去れ、 我らは赤旗を守る

歌が終ると指導する者「三年間の総仕上げと思ってしっかりやろうぜ」と。一同は「おお」と叫び返すが、胸中にある不安な心に、この先どうなるだろうという感情が入り交じる中、列車は最終集結地ナホトカ目指し、これまでにないスピードで走り続けていた。

 

4. 帰去来

これまで、ダモイだ、ダモイだと何度騙されただろうか、今度こそはと信じ打ち込んだ男に騙され、捨てられた女の悲しい心情にどこか似ていたが、自分 の乗った列車が日本海の見える駅に着いたことがはっきりとした瞬間、みんなから呻きともつかぬ歎声が上がった。もう間違いなく日本に帰れるんだと、自分で も分からない吐息が何度も出た。

日本海に面した海、ウラジオストク港は古くから知られているが、ナホトカはシベリアからの復員者にとっては終生忘れることのできない港だ。そのナホ トカ集結地は、旧日本軍の厳正な軍紀が、天皇をスターリンに置き換えただけかのような統制で、新入りの私たちは、きちんと軍服を着た。彼等の命令と怒号に 唯唯諾諾、反論、反対することはできない。アクチブ(先鋭活動家)の一人が「お前たちは、ここに入ったからにはわれわれの言うことを絶対守らなければなら ない。もし守れないようなことだったら、元の収容所に送り返す」と横柄な口調でふてぶてしく言い放す。

事実、港に浮かぶ復員船を目の前に見ながらまたシベリアに連れ戻される者がいたのだった。途中のシベリア鉄道の停車駅で見た一団は、反対方向への汽車を待っている者、声をかけても沈黙していたことを不思議に思ったが、あの人たちは、と今思い出され、緊張感に包まれる。

乗船するまでには四つの関所を通過しなければならない。その第一関門の第一収容所は内外の雑役。作業に行くときも帰るときも隊伍を整え、昔の軍歌さ ながら「赤旗の歌」から「インターナショナルの歌」等々を歌うことを強制される。ソ連から見て「好ましくない人物」と判定される不幸な人が、千人の集団の 中に二人か三人はいるという。ここまで来てそんな疑惑を持たれたら、元も子もない。見せかけの民主主義になりきり第一収容所から第二収容所に追われるよう に移動していった。

このころ多くの仲間と一緒にここまで来たが、もう他人のことなぞ考える余裕もゆとりもない。作業に出るときも、広場で民主グループが叫ぶアジテータ に参加する時も、先頭に立つことが一番の近道と考えていた。誰もが受験生の顔つき、密告されたら百年目、呼び出しがかるのでうかつにできない。戦前の日本 の特高警察を思わせる感じだった。作業の休憩時でも、うっかり煙草を吹かすこともできない。民主グループの周りに車座となり、学習の総仕上げをやる。

「労働者の祖国ソ連同盟万歳」「万国の労働者よ団結しよう」「スターリン大元帥に感謝しよう』等々。「もういいかげんにしてくれ、こんな馬鹿馬鹿しいこと」と言って投げたら反動と見られる。みんなそのたびに唱和し、盛んな拍手を送る。偽者になるのも楽ではない。

船は二日に一回、三日に一回、しかも二千人より乗せない。一方、列車は毎日五千人から運んで来る。この集結地には帰国を待つ日本人で氾濫状態、いつ 順番がやってくるのか、予想もつかない毎日だった。ここに至っては生殺与奪の全権はアクチブの一存に帰したような状況。その運に賭けるしかない。第三収容 所に入ったら早いらしいぞ、という話に溜め息つき、そこまで来ているダモイのあれこれを思っておったとき、「全員、所持品を持って第三収容所に移動せ よ」の天の声に、帰せずして歓声が上がる。

まず、シャワー室に連れていかれる。裸になり、流れ出る湯で洗髪。気分爽快となり、出たところには自分の着ていた物すべてなくなっている。係の者が 渡してくれた下着から衣服は旧軍隊の官給品。アルミのスプーンから仲間の記録、靴下代わりに足を巻いた布きれ等々は跡形もなく消えてしまった。

湯上がりの心地よさはあったが、失ったものに対する心のこりは本人にしか分からない思いが積み重なっていたが、今更それを悔いても仕方のないこと。 何も身につけることのできない丸裸にして、入り口と出口を変える巧妙な方法で取り上げた徹底さにはあきらめるしかないものと思った。

民主グループは執拗に最後の共産主義の教育を続け、帰国後は全員共産党に入党せよ、とまで叫ぶ。みんな共産主義者になったような顔をして最終の第四収容所に移り、点呼を受け、やっと乗船できると、ホッと安堵の胸を撫で下ろす。。

その朝、八月十日、夏の日はよく晴れ、日本船「遠州丸」が桟橋に横付けされた。

収容所を出発したのが七月初め、十日間のシベリア鉄道の旅、ナホトカに着いてから昨日まで船待ちに関門を通り抜け、今、ソ連収容所員が読み上げる。「ナカムラ ソウイチ」の声に、私の心は喜びに溢れて舷梯を駆け上がった。日の丸の国旗が船尾にはためいていた。
 

5.いま回想するシベリア抑留

ソ連は、日本軍将校と一般邦人約六十万人をシベリアへと拉致し、強制労働をさせた。そのうち死亡した数は六万人とも十万人に近いともいわれているが、実数はいまだに分からない。抑留期間も一番長い者は十二年にも及んだという。

日本がポツダム宣言で降伏を受諾して終戦となった1945年8月15日の直後、不法「拉致」されたもので、ソ連がやったことは国際法違反であること は間違いない事実である。しかし、ソ連側の不法行為で苦しめられたことだけでなく、内輪同士の争いで苦しめられたことがいかに多かったか。これも事実で あった。これを「民主化運動」と呼んだ。

日本の軍隊制度がシベリアへそのまま持ち込まれ、「いじめ」の伝統がソ連側の抑圧とダブって加重された。劣悪だった食糧事情と過酷なノルマは、二 重、三重に下級兵に重くのしかかり、その飢餓から抜け出そうとして兵士らが立ち上がったのだった。これらは一般論であって、抑留された先々の収容所指揮者 によって運、不運もあったが、先が見えずに、運命に翻弄された三年間だったと思っている。

昭和23年夏に帰還できてから数年間は、あの当時のことを夢に見て、夢中で跳ね起きて叫んだことも一度や二度でなかったこと。そして夢醒め、ああ、 今は日本にいるのだなあとホッと安堵したものだった。いまに至もシベリアは私の胸の奥深く存在し、消すことのできない刻印として残っている。

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平和の礎
シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦16

平成十七年三月二十二日発行

編集発行:
独立行政法人
平和記念事業特別基金
東京都新宿区新宿二丁目六番一号
印刷:文唱堂印刷株式会社