遥か青春

遥か青春
岩手県 鈴木良雄

1. 飢餓地獄の春

自然の恵みが我々を再生へと導いてくれた。和らぐ自然体の陽光は、やさしく肌を慰めてくれる。そして、冬ごもりからさめた虫たちのようにうごめき出した。誰もがまず食べる物をあさる。

2.  タンポポ

凍傷で二ヵ月、六ヵ月過ぎて栄養失調で二ヵ月入院した。入院の際には入浴させられ、体の毛は全部カミソリで剃られてしまう。シラミの発生防止のため だそうである。十六歳くらいの見習看護婦に、血管注射を失敗しながら四、五回もやられたときには閉口した。私達を試験代にして実地勉強をしているらしい。 失敗するたびに私達の顔を見て、申し訳なさそうな顔をしていた。愛らしさがいっぱいであった。

トイレにも困った。男女の区別がなく、しかも一カ所しかない。知らないでトイレの戸を明けて女医さんに叱られたことがあった。(昭和二十一年)

「フショー、フレーブ、エース?」トラックに乗った私達を見上げて、「みんなパンを持ったか」と収容所長が聞いた。「エース,エース」私達は口を揃 えて叫んだ。「ラボータ ハラショー、 スコーラダモイ」と言いながら、所長は黄色い歯をむき出して笑った。エンジンがかかるとトラックは真夏の朝の爽や かな空気を大きく揺すぶって行った。まだ朝の眠りを楽しむ白壁の家、工場へ通うハンマーをぶら下げた黒い顔の労働者、小豆色のペーチカの煙筒、カーテンを 開ける寝巻姿の太ったマダム、ちょろちょろと豚の子。早朝の風物を点々とかっとばし、トラックは走り続ける。トラックはレンガ工場に着いた。ここが私達の この一週間の仕事場であった。

「ズラステイ」感情のない、お世辞のような私達の太い声。「ズラステイ」「ズラステイ」と女達のははつらつとして明るい澄んだ声。作業はすぐ始めら れた。遠くウクライナから送られて来た女囚達であった。彼女達は近くのコルホーズ(集団農場)で働いていた。彼女達は私達と同じように、二重の鉄条網で囲 まれた収容所に押し込められて、毎日通って来ていた。ドイツとの戦争で敵に通じた国事犯の女達であるという。三ヵ月ぶりに来た農場は一面緑であった。昼の 休憩。雑嚢に入れて来た黒パン一切れが絶対的な私達の昼食であった。だが、この貴重な昼食の一切れの黒パンを朝食とともに一遍に食ってしまう者もいた。彼 らは飯盒半分のスープだけである。

馬車追い(馬車を使い物を運搬する人)がレンガを運搬に来た。運ぶ枚数によって駄賃が支給されるとのことである。こちらから「フショー(もしも し)」と言葉をかけると、とたんに「ヨッポイマーチ(馬鹿野郎)」と返って来た。聞いてみると、言葉をかけられると、今数えている数を忘れてしまうからだ と言う。私が積み終えてから数えられるからと教えても本当にしない。積み終わってから数を数えてやり、レンガを下ろしたときに改めて数えてみなさい、と 言ってやった。帰って来て「ハラショー。ハラショー」と言って、握手を求めて来た。

次の日も積み終わってから、「ヤポンスキーソルダート、イジェスダー(日本の兵隊、こっちに来い)」と言う。「イショーラス(もう一度、教えてく れ)」と頼んで来る。不思議そうに数え方を見ていた。数え方が本当にわかったかどうか。彼等は45x12x8という方法を知らないようだ。

馬の個人所有は許されていないので、国から貸し付けされているとのことである。

帰れる日は果たして来るだろうか、再び故国の土を踏むことのできる日が、我が家の畳の飢えで大の字に仰向けになって、誰からも文句を言われることな く好きなことができる日が果たして来るだろうか。閉じたままの瞼の間からにわかに涙がにじみ出て、照りつけられた頬に伝わって落ちていった。(昭和二十一 年八月)

仕事の休みの日には、寝台の隅から哀調を帯びた歌が聞こえて来る。すると、みんなが一緒になって歌い始める。

宵闇迫れば悩みは果てなし

乱るる心に映るは誰が影

君恋し、くちびるあせねど、

涙はあふれて今宵も更けゆく

「国境の町」「影を慕いて」「裏町人生」「誰か故郷を思わざる」などの歌が心に残っている。「異国の丘」は私達が帰国した翌年(昭和23年』にヒットされたように憶う。

3. 松皮餅の開発

春の訪れとともにシベリアの植物や物体は、生気を吹き返すように活動開始である。冬期間に伐採した貯木場の丸太の枝からも芽や葉が出て来ることがある。

このころになると、赤松丸太の三層の皮を剝ぐと、木部との間に、柔らかでぬらぬらした白色の皮が現れる。我々はこれに目をつけたのであった。これな ら、豊富な丸太から大量に採集することができる。これを飯盒で長時間煮詰めるのであるが、容易に繊維が溶けてくれないので、これを棒でつつく。餅状になっ たものに炊事場から自分の食事分量を混ぜて更につくのである。これを松川餅と名付けた。要は、いかに分量を増加させて胃袋を慰めるか、苦肉の策であった。

一時的には流行したが、松の匂いはよいとして、繊維のからみあいが強く、長続きしなかった。

4. 筍の恵み

八月、短い夏が過ぎ去り、初秋を迎える。シベリアの松林には一斉に筍が出る。これも我々に対して自然の大恩恵であった。

シベリアには珍しい小時雨の晴れ間、収容所裏の松林に、各自で工夫した入れ物を携えて入っていくと、時期到来とばかり生え出した筍の群生が、足の踏 み場もないほどで実に見事なものであった。最も多い種類は俗称「栗子筍」次いで「初筍」その他、多種多様の雑筍が山一面に現れ、筍畑となる。

この場合でも、それなりの達人(筍博士)がいて、筍の判別を教えてもらえる。世が世であればこの上もないリクリェーションであろうが、この場合は別で、死活に関わる食糧の確保である。無言の中で、無心に採取する。

持ち帰った筍は、これも手回しよく飯盒に押し込められて煮る。味付けもない筍が、一斉に各自の胃袋へとすすり込まれるのである。味わい感は別、空腹 を満たす満足感が先決である。飯盒一杯を瞬く間に平らげて、また飯盒で煮て食べるのである。これが、作業の合間を利用してのことであるから大多忙であっ た。

筍の季節は短く、この節に大量に採取して塩蔵したいとの話も出たが、日常の炊事の塩でさえ、塩漬魚の塩分を利用するという有様であるから、できない相談であった。

5. シベリアの狩人たち

気候がよくなり、作業も経験から要領を身につけて体力の消耗をカバーでき、環境改善とあわせてタンポポ、雑草で生き残った抑留者たちは、心身ともに 元気を回復していった。この頃になると、これも自然の恵みであろうか、あの鬼の警戒兵も厳しさが薄れ、親しげに付き合うようになって、収容所の門衛もなく なり、出入りもある程度自由になった。

体力を取り戻した同僚たちは、獲物を求める野生動物のごとく、敏捷さと凶暴さを発揮するようになる。駅付近の部落民の放し飼いである山羊、豚、牛 が、餌を求めてやって来る。これを見逃すわけがない。あたりの様子を見極めて数人が襲いかかる。追いつめられた獲物は、たちまち処理され、隠匿場所から逐 次隠密のうちに体内の栄養となった。

当時、三人寄れば、「食うこと」「帰国のこと」以外は語ることばを忘れた。飢餓の集団なれば、立場は変わっても一意専心、食うことにあるのみであっ た。そして食うための手段は次々と開発され模倣される。かつての虚弱をきわめた時期には、犬にもかみ殺されそうな状態であったが、立ち直りによって犬狩り をする。犬は馴れやすいから、すぐその手にかかるのである。獲物は手当たり次第で、時には仔牛までもやった連中があったようだ。数人のグループで、あくま で隠密に事を運ぶのである。飯ごうの中味を問われると、山でウサギをとって来たと言う。シベリアの山でウサギは見たことはないのに。

部落民の家畜がかなりの被害と思われたが、別段、問題は起らなかった。ソ連という国は、そういう国柄なのかもしれない。いずれにしても、越冬の体力づくりに努力が命を支えたのである。

6. 大根泥棒の夜行軍

ソ連の国内事情も戦後の混乱から落ち着きを取り戻したのか、あれほど不定期むちゃくちゃな貨車の入構が、幾分か事前予告があるようになった。今晩は 貨車の入る予定がないと知れば、安心して眠りにつけるのである。ところが、そういう晩こそ、貨車積み作業に代わる夜仕事に出かける集団があった。

私の器材整備作業は、毎晩のように夜中の一時までは続くので、これに気づき眺めていると、舍内が寝静まったころ、黒い人影が2、3人ずつ忍び足で舍外へ出て、小走りに門の外へと消える。数えると十数人にも及ぶ。

あとで聞いた話によると、この人たちは途中で集結して、6、7キロメートルも先のコルホーズ(集団農場)を目当てに夜道を急ぎ、到達するや手当たり次第、大根、人参を引き抜いて大きな袋に入れ持ち帰るのだとういう。

これは何回となく繰り返し実行していたようであるが、ある晩、農場側に気づかれ、猟銃の発砲で、あわてて逃げ帰ったとも聞いた。人は苦境にあってこ そ生きるための執念が強くなる。私は別棟で知らずにいたが、各自の舍内床下は、大根その他の食糧貯蔵庫であった。いつの間に土を掘り出したものであろう。 道理で、彼らがときおり生大根や生人参をかじっているのを見かけたのである。

生死のはざまをさまよう環境にあっては、誰人として他人に食物を分け与えることはない。あくまでも自分の生きることで精いっぱいで、相手の救助といった心身のゆとりは全く失った世界であった。

7. イモ掘りをして追われる

ジップヘーゲンDzipuhegen駅周辺の小部落では、個人畑のジャガイモの収穫が終った。この地の作物は、大根、ジャガイモくらいのもので、それも良いものはとれない。現地人でも相当に小さいイモまで拾い集める。

その後を同僚たちはスコップを使って更に掘り返し、豆粕ほどの小イモを拾うのである。頑張る人は飯ごう一杯の収穫をする。

こういうところを見ては、じっとしていられない。俺も我もと真似をするのが常である。他人の堀ったところを知らずに、二度三度と掘ってみてもイモが あるわけがない。あげくの果ては住民にどなられ、追われてスコップを投げ捨てて逃げ帰る。これでスコップの員数不足を来たし、器材係が苦労する事態とな る。

8. 工夫された正月のご馳走

昭和22年(1947)の正月を迎えるにあたって、日本人ならではのご馳走の相談がもち上がった。限られた飢餓食の中から、泣きの思いで一日一人、 米十五粒の割合で貯えようというもので、五ヵ月前から実施された。その貯蔵米での正月の楽しみは、炊事係に一任ということになった。

正月までには松材のうす、きねも作られた。新年の門松が立てられ、餅をつく音もなつかしく、ご馳走が待たれる。餅とは行ってもウル米となればダンゴ である。しかしうすでついた餅である。一人当たり5、6センチ径のもの一個、小豆をまぶした小さなおはぎ2個、これまた小さな海苔巻三個、この海苔という のは、実は、塩鱒の皮である。同じく塩蔵野菜巻一個、焼き塩鱒一切、普段より硬めの粥で、これがシベリア生活でたった一度の最高の食事、僚友だち一同が目 を輝かした正月元旦のご馳走であった。

ちなみに、当時の炊事勤務者は、愛媛県出身の永易伊勢雄君、陸前高田出身 大和田末吉君、青森県出身 工藤浅吉君、釜石市出身の小沢徳太郎君の四人であった。

9. 洗脳の赤い嵐

作業には誰もが熟練した。それと同時に、個々においても散髪、衣服の修理、ランプの工夫、座卓の制作等、身の回りの整備に気が向くようになり、あの 落ち込んだシベリアボケから漸次生気を取り戻しつつあった。そして、悪逆非道の限りを尽くしたソ連兵たちとも至情の交際が始まり、個人的には和らいだ雰囲 気が醸し出されて平和がよみがえるかに見えてきたころ、次は思想的洗脳工作であった。

ソ連の政治部員、秘密警察の存在感は、そのころになって我々の目にも感じとれた。兵士や住民に対しスターリンの政策のことなど聞いたりしようものなら、固く口を閉ざし、拒否の手ぶりで、両手の指二本を交差させ、監獄ゆきのしぐさをして見せる。

そもそも党員教育は実によくやるが、庶民の教育らしいものを見かけたことはなかった。「一般民はばかほど使いよい」とでも考えているように..........。

ソ連の人たちは、このようなことには馴れているのか、別に気にとめる風もなく、結構陽気で、だれかれなく親しげな態度をとり、気さくに、通じない言葉でもどんどん話しかけて来るのである。それだけでなく、一度信頼すれば、倉庫の鍵までも預けるほどの人のよさであった。

ソ連は、当初、日本軍隊の統率力を見抜き活用した。集団の秩序を維持し、命令系統を保って強制労働力の実効を図り、その成果によって、戦後の窮乏に あえぐソ連国経済の復興と国力増進が最大の急務であった。そのために、我々の軍隊制度をそのまま存続させ、将校には帯刀を許可して作業の指揮権を与え、下 士官、兵は隊伍の中で作業につき、以前、階級、敬称を保持持続させ、毎日の朝礼には宮城を遥拝し、故国の父母、妻子をしのびながらの「海行かば」を高らか に合唱させていたのである。

ノルマ達成の作業成績優秀者に対しては、ソ連側の認定で進級させるという時期があった。同時に、作業成績の悪いノルマ未達成者には「減飼」と称して 食事が減らされる。定量でさえ飢餓のふちにあるのだから、死を招くだけの制度であった。ソ連流「働かざる者は食うべからず」である。こうした悲惨な処遇に 対して、当方の作業隊長がソ連監督将校にたびたび抗議するが、何ら解答を得ることができなかった。

全くの自助努力で、抑留者の心身、体調回復が見えると、すかさずソ連政治部将校の出番となる。少し前からハバロフスクで発行された抑留者向けの『日 本新聞』が配布されていて、何の情報も与えられなかった我々にとって、夢でもよいから祖国の実情を知りたいものと喜んだのであったが、どうやら内容は、日 本の過去の軍国政策批判と我々に闘争心をあおり立てる趣旨であった。そしてまた、昨日まで友であり、偉大な援助、協力者であったはずのアメリカを罵倒し、 我々が抱いている敗戦と悲惨と屈辱の怨念をアメリカにだけ向けさせ、ご自分は「解放の紳士、面倒見のよい友」というのである。

昭和21年9月ころ、20人ほどで「友の会」が発足し、我々とは離れた所で研究活動が始められた。しかし、一般には関心がなく、収容所内の変動は何 もなかったが、間もなく、政治部員の出入りが頻繁となり、当方の特定の人との接触が公然と行われるようになった。それと同時に、ウソともマコトともつかぬ 帰国のうわさが立ち始め、友の会が解散して「民主同盟」に発展してからは次第に運動が強力になったのである。そして、この運動の初期において軍組織は初め て完全に解体され、しかも、手のひら返しに階級、敬称が撤廃されるに至ったのであった。

永い間厳正をきわめてきた規律はともかく、習慣づいた敬称呼びを一日にして「さん」呼ばわりすることは、捕虜の実とはいえ至難なことであった。うっ かりいつもの癖を出すものなら、組織委員に反動分子呼ばわりされ弾圧を受ける始末で、一時は無秩序状態に陥った。しかし、ソ連政治部員を後ろ盾に、活動分 子(アクチブと呼ばれた)によって鎮圧され、ソ連式民主主義のもと一つの新しい驚くばかりの秩序が確率されたのである。それはまた、民主同盟から「反 ファッショ同盟」に発展改称するに至って、恐るべきものにエスカレートしていったのであった。

その経過はソ連式裁判所構成による裁判官、検事、弁護士といった名で、反対意見者、無関心主義者を反動分子として引き出し、集団の面前で徹底討論を する。つるし上げの攻め付けは夜を徹して行われ、被疑者にされた年配の召集兵なども、土下座して反省の近いの言葉を泣きながら語る。この成り行きを見守る 一同は、次は自分が呼び出されるのではあるまいかとの不安を顔に浮かべ、互いに無視し合う者、余計に騒ぎ出して軽蔑の色をみせてこづく者もあり、かつての 友の間に不信感の暗い影が落とされ、戦友といえどもうかつな言動は許されない事態となった。

なにせ委員長は、帰国中止の権限までも口にする権力者であった。ソ連邦の国力強化なくして我が祖国の復興は達成できない、我々葉「祖国革命上陸軍」 になると息巻く親ソ派、帰国の手段としての運動であるべきとの理解を秘めたグループ、これらが表面上では完全に一体となってこの思想運動が展開された。

ついには青年行動隊が組織され、文化部、演芸部等の積極的活動に力が入るようになった。多種多様の職業能力体験者の集団であれば、何事につけ、本職 もそれ相応の能力者もいて事を欠かない。演芸部にあっては、大道具、小道具、衣装、カツラ、三味線、農工具など、必要に応じて材料を工夫しながら手作りで 役立てる。持ち前の脚本、演出、主演に至っては多くの愛好者、芸能者によって進行された。

出し物としては、封建時代の地主対小作人たちの闘争を内容としたもの、「軍政の弾圧に耐えて」「共産党闘士が今還る」など思想運動に直結したものが 多く演じられた。時には、故郷の父母弟妹を慕う望郷の場面も演ぜられ、見る者一同に祖国への思いを募らせた。内容説明を受けながら演技に見入る政治部員は 「ハラショー」を連呼しつつ鑑賞するのだった。

このようにして思想運動がソ連流啓蒙により拡大発展を続け、その思想改変の程度が帰国(ダモイ)の時期を左右するといううわさも広がり、事実、帰国 のためナホトカに集結した集団が帰国中止となって、再度シベリアの奥地に逆送され、労働と思想教育に服しているとの話も聞かされた。

過酷な労働と最悪の生活環境の中で生命を取りとめた者にも、一難去ってまた一難で、いじめ同様の強制的親ソ派の思想運動は、帰国時、ナホトカの港を離れるまで過激に続けられたのだった。

10. 生きるための知恵

人は死を免れるためには全知全能が発揮される。ふだんなら思いもつかない才覚を発揮する者、不器用と思われていた人が予想外の能力を示すといったことが、収容所生活極限の中で立証され、評価されたのである。

原始的生活の中で、物を作る着想、材料、工程、仕上げ方法等、すべての知識と工夫、研究の他にも、根気の要素たる必要工具の無に等しい中で、古ヤス リとか金切鋸の刃、破損した鋸の刃を集めて、小刀を作り、きりを作り、僅かな余暇を利用して、年季の入った職人業とも言える細工を仕上げるのである。まさ に見せつけられたとの印象は今にして鮮明に残る。

11. 苦肉の知恵袋

ジップヘーゲンの収容所第551労働大隊の死亡者が甚大なため、数度にわたり他の収容所からの転入、転出が繰り返された。この人たちの中にあって は、開戦時、新京(長春)、奉天(瀋陽)にあって戦闘待機体制のまま終戦となり、軍が解散した被服庫の中からは新品の衣服、糧秣庫からはあらゆる食料物資 の放出と、一時は物量のあふれに嘆く有様で、自由奔放に背負えるだけ、持てるだけの荷物でソ連入りしたとのことだった。

食もなく、破れ衣服丸腰の我々とは地獄極楽の違いで、改めて人の宿命なるを痛感したが、この転入兵たちも略奪を受け、さらに収容所入り以後はパンと の交換で、背負ってきた荷物は何一つなくなったと語り、結局、我々と同様の姿であった。しかし、人それぞれ、性格、考え方の違いからの習癖、物好きという か、予想外の物を大事に所持している人がいるものである。そして、この鳥も通わぬシベリアで困窮生活を送っている原住民は、すべてにわたって不自由にして いるので、何から何までほしがるのであった。

12. 三種の神器と化粧品

転入者の戦友は予想もしない品々を所持していた。驚くなかれ、それは事務用大型印肉、書画用の墨、歯磨き粉の三種である。しかも、いかに苦肉の策とはいえ、その着想には恐れ入った次第であった。事の次第は次の通りである。

貴重な品々であれば、分量を細かく分けて、体裁を考えた容器に入れ、夕刻時、ソ連婦人の集合する場所に行き、手まねきしながら「蟇の油売り」よろしく説得を始めるのである。まず、歯磨き粉は「白粉」、印肉は「口紅」,墨は「眉墨」というのである。

ご婦人はどこの国であれ、美しくなりたい、化粧したいのは本能なのであろうか。シベリア住民の大半は、もともとは白系露人の貴族、特権階級が革命後 に流刑された人々の子孫で、文化人としての血を多分にひくと聞いたが、そのためか、この化粧品の交渉は成功をおさめた。一度に黒パン五個を手にしたのであ る。

さっそく翌日、その当人たちはお化粧の顔を見せるべく、我々の作業場に現れたのであった。なるほど、さすがの化粧上手で彼女たちは満足げであるが、 知らぬが仏とか、事情を知っている我々の方はおかしさに我慢ができず、吹き出して笑う者、物陰にすわって首をうなだれる者。腹に力がない空腹ものの笑いは むしろ苦痛に近いものだった。

それでも彼女たちは疑問を抱く事もなく、その場のことなどどこ吹く風としゃれ込んでいるのである。苦い笑いの三種の神器物語であった。

13. 手工のはじまり

越冬も二回目を耐え偲んだ昭和22年、シベリアの遠い春がやっとまた訪れた。生活環境の改善、自然食等の自助努力で、第二の越冬では犠牲者を最小限 にとどめることができた。しかし、一日として脳裡から離れることのないのは帰国のことであった。それでも、このころになると、半ばあきらめの度胸とてもい うか、つかの間のゆとり気分にひたる日々も見られるようになった。

苦脳をまぎらわすのは、同僚たちが編み出す手工作である。もちろん、物交のためのもので深刻な目的ではさったが、創造するという行為の中に、春風の ようなうるおいもあったのである。手工に必要とする器具一つ、資材一つない原始的な環境でのこと、自らの工夫と努力と執念こそが極地の業を生み出す力であ れば、寸暇をいとわぬ熱中ぶりは、涙ぐましい一種の青春劇である。

釘一本見当たらない所では、太い番線の切れ端なども貴重なもので、この先端をたたいて平たくして研いで刃をつければ小さなノミ、彫刻刀に使える。鉄 板の切れ端を研いで小刀を作る。拾った古ヤスリで廃品になった鋸を目立てし直し、小細工用の鋸を作る。針金を手入れして編み棒を作るなどなど、種々雑多、 多様多忙なものであった。

これらの原材料の入手、すなわち廃品回収は、暇を見て部落の民家、駅、修理工場等、付近を徘徊し、見 たてを工夫したり、利用度を考えたりしながら 手工にとりかかるのである。そして、最後は人の注目を集めるに足る品々、スプーン、指輪、タバコのパイプ、将棋のコマ、マージャンのパイ、軍手や軍足など の編み物に至る稼業で多忙をきわめるのである。まさに「新鉄器時代のはじまり」であった。

14. 執念の高級指輪

手持ちの品がなければ物交の黒パンを手にすることはできない。それなら、それに値する物を生産すればよいと、賢明なる諸君は思いつく。あくまでもある材料を対象として製品を決めるのである。千人針の五銭すず貨を利用して考え出したのが指輪であった。

特にこれといった工具もなく、また経験もない者が、どんな方法と手段で指輪を作るのか、企業秘密とまではいかないが目立たないようにして、たえず気 長にいじり回していたようであるが、むしろ、このような人の作る作品は素晴らしい物がある。実に不思議という他はない。よく、なた一丁彫り、のみ一丁彫り などの言葉があるが、こちらは金属に対して古ヤスリ一丁の作というべきであろうか。その出来栄えは、デパートの陳列品にも劣らぬ絶品で、みな驚嘆するほど のものであった。

しかし、競争意識も手伝って、こうしたものが次々と研究開発される。シャフトの砲金部品を見付け、自動車修理工場で輪切り切断を願う。仕上げの段階 で、ダイヤ、ハート型の浮き彫りと、先を抜く絶妙な細工師も出て来る始末で、当初は金製品と偽り、ソ連マダムの好評を博した高価な取引もなされた。

15. スプーン、フォーク作り

これは飯ごうの利用である。まずれんがにスプーン、フォークの型どりをする。これは、鉄片、小刀で彫るのである。次に飯ごうをたたきつぶして頑丈な 容器にいれ、器材庫鍛治場のふいごを使って溶かすのである。これをれんがの型に流し込む。できたスプーンやフォークをたたき出したり削りとったり仕上げの 形作りをして、ヤスリをかけ、砥石、サンドペーパーで磨き上げるのである。これまた市販品に匹敵する出来栄えであった。何しろソ連製日用品は粗製濫造品が 多かったので、見劣りはないのである。

16. つつじの根杢の加工品

シベリアの松林の中に自生しているつつじは、永い年月を経て育つので、根株の木質が素晴らしく、美しい杢目は楓の床柱材にも匹敵する。誰かがこれに 目をつける。根元を掘り下げて切り倒し、根元の部分を挽き割ってタバコのパイプ、またはネックレス、ブローチ用に荒削りする。パイプの場合は、まず細い焼 き針金で穴を通してから、丸型、楕円型、六角型等、思い思いに形を整えて、口金部分も荒削り中仕上げにして乾燥させる。乾燥するに従って木質が固さを増 し、この間、削ったりこすったりの繰り返しで仕上げる。道具としては、ガラス、瀬戸焼きの破片、砥石等々を利用するのであるが、いずれもきれいな光沢が出 て杢目が美しい。最後に銃弾の薬きょうを1センチくらいに切って差し込み、更なる仕上げに松喰い虫の幼虫を潰してその脂肪で摺り磨く等々、いろいろと工夫 がなされた。

ネックレス、ブローチにしても、同じ花型、ハート型とデザインもさまざまで、更に掘りを施すから実に本職負けの逸品ぞろいで、細工は流々仕上げをご覧じろである。

もちろん、その職に通じた職柄の人もいたことであろうが、細工の腕前のほど、巧妙なる能力には、常にソ連人の驚嘆するところであった。

17. 物を大切にする信条

何一つものの不自由のない現代にあっては、物を大切にすることを忘れている。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」とか、あの戦中戦後の悲惨な物不足に泣いた思いも忘れかけつつある。

抑留体験での飢餓と不自由な生活から、身にしみて物のありがたさ、大切さを体得できた。あらゆる物資、物品がいかに我々の日常生活に役立っているか は、不自由してこそ、そのありがたさに気づく。特殊な環境とはいえ、抑留生活における食物はもちろんのこと、紙一枚、針金、糸一本、空き缶一個が、いかに 大切な貴重品であるかの体験から、改めて、人が生活するための膨大な数々の必需品の豊かさの中で暮らせることが、まさに天の恵み、神の助けとして、物にあ ずかる感謝の念、物を大切にすることを信条としたい。

18. ロープが短くなる

秋の夜長に入ったころ、夕食後の舎内をのぞくとランプの明かりで編み物が大流行であった。

誰もが私から顔を背ける感じ、というのは、編む糸は紛れもなく綿ロープをほどいたものである。そのころ、作業に使用するたびに綿ロープが切られてい ることは気づいていたが、そのせいかと直感した。しかし、同僚のことであり、世が世であれば、黙してその場を去った。今はソ連の資材でも、元々は関東軍か らの戦利品であろう。どうなろうと構うことはないとも思った。

しかしまた、作業ごとにロープが短くなる。毎月の器材検査も心配だが、何よりも作業そのものに支障を来たすことである。補充は望まれぬとあれば、予防策を考えねばならない。

ロープの末端部が目につきやすくするために、末端を鉄線で締めつけ、さらに30センチメートルくらい墨染めにして目立つようにした。一応、気休めの 処置と心得てはいたが、案の定、才知の回りがきく同僚たちのこと、今度は端から切り取らずにロープの中央から必要分を切りとって、後を継ぎ合わせて納品し てくる。これは意外と気づかずに受けとる結果になる。身内の友が生きるがための行為である。これ以上の防止策はできないから、器材検査のときは自分一人で 責めを負えば済むことと認識し、黙認することになる。

ロープは純白の綿糸をよりあわせた4センチメートル径の太物で、長さ1メートルもあれば軍手が五足十分にできる。各自が編棒を作り、熟練者の指導を 受けながら、俺も我もと編む。軍手、軍足、チョッキ、その他、さまざまにロープが生まれ変わる。しかし、編み物製品の汚れが目立つときは、これを「よも ぎ」等の雑草の煮汁で染めると、適当な模様にでき上がる。

このようにして、編み物製品は物々交換品として抑留者の体力作り、命の糧として役立ったのである。

19. 捨てる前に一服

飢餓の極限、意識もうろうの中では、酒、煙草といった嗜好品など、頭から思いつきもしなければ、また、無類の煙草好きだった人、片時も酒を断ち切ることができなかったアル中の人であっても、ここでは、それは全くぜいたく品にすぎなかったということが体験立証できたと思う。

しかし、それはその物がそこにないからである。煙草好きは、白樺の葉、松の葉、よもぎの葉、その他の草を乾燥してその煙草で満足していた。

抑留三年目に入るや、ソ連経済のゆとりの兆しか、若干のマホルカ(煙草の葉の粉と茎をおがくず状に刻んだものを混ぜ合わせた煙草)支給されるように なった。この刻み煙草を吸うには紙が必要であるが、特定の紙はない。ソ連人は必ず新聞紙を小さく折りたたんでポケットに入れていた。煙草を吸うとき、この 新聞紙を7、8センチメートルくらいに切りさいて指にはさみ、一方の手でポケットのマホルカをつかみ出して紙の手前の方に並べ、器用に紙を丸めて巻く。撒 き終わりの紙端には、つばをつけて張りつけるのである。やってみるが容易に紙がくっつかない。栄養失調では、つばも練り気がないのだと語り合う。巻いた煙 草の一報の端をひねってからこれを立て、中味の刻みを落ちつかせ、上方を吸い口として、ひねった方に火をつけて喫煙するのである。

ソ連人は慣れもあるだろうが、このマホルカの紙巻きは実に手際がよく、つばも紙がよくくっついた。これには我々も感心したが、幾らまねても容易に上 達できなかった。その上、巻紙にする新聞紙の入手が困難である。「刻み煙草はやるが、後はお好きなように.....」とはソ連式国情の相場である。

社会的経済事情は、則、衣食住、日常生活に現れる。このころは、ソ連人の生活向上が見られ、軍の将校たちの服装、食事は向上したと聞いた。変わらな いのは我々の待遇であった。マホルカからシーガレットに変わったソ連将校たちの吸い殻の捨てるのを番犬のように見守っている者もいたが、あさましい行為に は違いないが、当時としては別にどうこういう者もいなかった。要するに、この吸い殻の拾い厚めをほどいて、マホルカ式の一本の煙草を巻いて吸うのである。 隣に居合わせた友が、「捨てる前に一服くれ」という。その恵みをいただくと、また別人が「捨てる前に一服.....」となる。

これは断るわけにもいかない行いである。もちろん、捨てる前に、そうそう何人もが吸えるわけはないが、知らぬ間に流行語のようになった。

20. ゆりかご功罪

器材係は、作業時の器材支給、収納時の因数確保と整備が主な仕事であった。

整備は、作業休みまたは在庫している場合に行い、夜を徹しても整えておかなければならなかった。毎日の作業で、通上十数丁の破損物が出る。二日分も補修が滞ると、作業に及ぼす影響は大変なものがあった。

抑留生活二年目を迎えて、陽春の季節に誘われ、私も余暇を利用して手造りの工具で何か木工品を作る気になり、亡くなった戦友たちの遺骨を納める箱をはじめ、収容所内の生活の便に供する手近なものの工作を始めた。

これを見かけていたソ連監督将校が、ある日、器材庫に入ってきて「マーリンキーが生まれたので、ゆりかごを作ってくれないか」とのことであった。私 には「マーリンキー」というのは「小さな子供」のことだとまでは分かった。しかし、そのほかのことは皆目見当がつかず、戸惑っていたが、彼は真剣な手まね きで大きさまで示し、私はどうにか納得することができた。

もはや、それは注文ではなく命令に近いものと受けとめられた。

そこで私は、材料を検討し乾燥して作らねばならないこと、工具が不備で、良い品物はできないだろうことを手まねで説明すると、彼も分かったらしくて「ハラショー(よろしい)」という。

私は事の次第を大藤作業隊長に報告し、了承を得て材料の準備に取りかかった。白樺の丸太を小割りし、松板を床材と決め、1.5センチメートル幅と2 センチメートル幅のノミを急造、また破損した鋸を加工して細引き鋸も用意した。困ったことにかね尺がない。これはにわか作りは無理なので、木製の直角定規 を作って間に合わせた。ともかく、これで工具は一応揃ったことになる。かんなやタテヨコの細工鋸等はすでに作ってあった。

ゆりかごの材料は熱気乾燥室に入れたので、間もなく完全乾燥材ができ、いよいよ下こしらえとなるが、おの削りからのかんな仕上げは結構大変であっ た。乾燥した白樺材は予想以上に硬くなり、名ばかりの道具では作業も思うように進まないのである。それも、器材整備をしながらの仕事、気長にやるほかはな い。

いずれ材料仕上げができれば、もうあとはこっちのものである。監督将校も、間々顔を出すときもあったが、別にせき立てることもなかった。

組手の仕口を終えて、出来栄えを良く見せるべく、両側の堅格子にチューリップの花を、切りすかしのデザインで化粧し、また手すり部分を丸めるなど、ある程度の体裁をつけて仕上げとなった。

完成を伝えると、監督将校は早速やって来た。ゆりかごを見て満面の笑みを浮かべ、「ハラショー、オーチンハラショー(よろしい、大変よろしい)」 「シバシーボ(ありがとう)」と、私の肩をたたいての喜びようだった。立場はまるで違っているとはいえ、彼の満足感と私の達成感が一緒になって、他を忘れ させる大きな親しみがわいてくるような気がした。」

あの「ゆりかご」で育ったマーリンキーは、今や50歳近い年齢に達したはずである。

収容所の前では、当初数人の兵士が交替で勤務に当たっていて、その上司に若い少尉の姿が時折見受けられていた。

監督将校にゆりかごを渡して数日後、その少尉が器材庫に現れて、「おれのところにも赤ちゃんがいるので、監督さんのと同じゆりかごを作ってくれ」と言う。やはり、注文ではなく、明らかな命令だった。

私はやっとの思いでゆりかごを完成させ、やれやれと一段落した気分と、ある種の義務からの解放感にひたっていた矢先だったので、そしてまた、器材整備も滞りがちになっていたので、またしても分外の仕事、虜囚的不満と複雑な気持であったが、従う以外にない。

ともあれ、二個めの製作とあって、考え方も手順も当然順調とはいえ、作業は思うように進展しない。少尉さんには二度ばかり催促されての完成であった。

私は、別に彼等の階級にこだわる気持ちは毛頭なかった。「ただで作ってやるものに文句はないもの」という安易な考え方に従って、同じ作品ではあった が、切りすかしの化粧細工だけは省略したのである。完全に同じものというのも能がないように思えたし、また、別のデザインで頭を悩ませる気分もゆとりもな かった。

少尉さんは、連絡を待たず、でき上がるころを見計らい、期待感をあらわにしてやって来て、「ゆりかご」に手をふれて見ていたが、浮かんでいた笑顔が 一瞬にして曇り、「監督将校に作ったものとはここが違う」と言うように、固格子を強く指さしてどなった。「おまえは、階級を見て差をつけたのであろう!」 という意味のしぐさで、ゆりかごを壊さんばかりの怒りようだった。

このような場合、彼等に対しての言い訳、言いのがれは無用である。意志も言葉も通じるものではなく、黙して我慢する以外はない。どうにでもするがよ い、と私は平然として立っていた。「ニェハラショー(お前を上司に報告して)トーキョーダモイ、ニェト!(帰国させない)」とさんざんののしり言葉を残 し、それでもゆりかごは持ち去った。

当時は収容所内に思想運動が展開されている最中であった。しばらくは、この「ダモイ、ニェト」が私の胸にうずいていた。

21. 木製トランク作り

ある日、一人の監視兵が、一メートル四方くらいの普通のベニヤ板を手にして器材庫にやって来た。笑顔で貨車内の拾い物だという。見ると、ベニヤ板には石炭のすり傷や石灰の粉がついて汚れている。

私は、破れ貨車の穴当てに使っていたものと直感した。彼はこれを使って箱を作ってくれとのこと。手まねの会話でよくよく聞きただすと、自分の衣類や 所持品入れとして使い、除隊するときは、手提げにして持ち歩くのだと、その格好をして見せた。木製トランクのことと分かり作ってみる気になった。

松の割り板を薄くおの削りして、厚さ1.2ミリメートルにかんな仕上げし、縦60センチ、横40センチ、深さ18センチの箱組みを作り、これに両方 からベニヤ板を釘打ちして箱はできた。これをふたにする方から5センチメートルとして箱の側板を鋸でひき割る。これでトランクの身のふたができ、ふたのず れを固定するため、箱の身の上、角から5ミリメートルほど出して細い薄板で中子を打ちつけて、あとは身とふたをちょうつがいでとめ、下げる取手を付ければ 完成である。実に簡単で、何ら取り立てて言うほどのこともないが、当時のこと、シベリアでのこと、一人がやると、俺も我もとたちまち流行する。果ては監視 兵だけでなく、同僚たちもとあって、大小さまざま、ベニヤがなければ松板でと、製作は大繁盛を呈した。ちなみに、ちょうつがいは皮バンドであった。

あの監視兵たちは、木製のトランクを下げて除隊したであろうが、今どうしていることか。私と同じ年ごろであった。

22. ソ連の鍛冶屋さん

私は器材整備の関係でジップヘーゲンDzipuhegen部落の鍛冶屋さんにはいろいろお世話になった。鍛冶屋は貯牧場と部落の中ほどにある。凍土に使って摩減した金テコを担いでずいぶんと通った。

鍛冶屋のおじさんは55、6歳の蒙古系の人であった。主に小物作りで、扉の「つぼひじ」、「かんがね」など、家庭金物の修理や部品などの仕事であった。年季の入った職人といった風格で、いつもこつこつと働いていた。

私が毎度のこと金テコを担ぎ込んでも、いやな顔を一度も見せたことはない。もっとも監督将校の承知の上でのことであるが、やりかけの仕事を後回しにしても快く私の仕事を手がけてくれた。

彼は職人らしい悠長な面持ちで、革製の足踏みフイゴで風邪を送り込みコークスの炎を慎重にあおり、金テコの先が真っ赤に焼けたころ合いを確かめて先をたたき仕上げる。手抜きなどみじんも感じさせないものだった。

鍛冶屋と少し離れた所には小さな大工小屋があった。やはり、55、6歳の大工さんが一人で働いていた。監視兵の案内で、細い「のみ」を借りに行ったのが最初で、彼は無口ではあるが少しも嫌な感じを与えない人柄だった。

この大工さんの仕事は、1メートルほどのガラス窓の建具作りが多く、日本で言えば建具屋である。作り方の仕口は、三枚組、二枚組で、日本のようなほ ぞ組みはしない。作品は粗雑なもので、枠の中にガラスが収まればそれでよいのである。体裁も吟味もいらない。道具の内容にも驚く。鋸二丁、かんな二丁、の み四丁くらい、きり三丁とおのと数えるほどで、特別な道具は見当たらない。日本のかね尺に代わるものもなく、手造りの木製の定規がその代役をする。

後日、のみを返しに行くと、八十歳近く思える老人が大工さんと雑談していた。体格のよいロシア系の人であった。私を見るなりその老人は「ヤポンスキー」と聞いて話しかけてきた。私は言うことがわからないのでポカンとしていると、手まねや動作を使って真剣に話を続ける。

この老人は、日露戦争中、日本の捕虜になり、四国のどこかに収容されたとのことであった。「日本のウオッカ(焼酎のことらしい)はうまかった。仕事も楽だったし、死者も少なかった。」とのこと。

この老人は海軍だったようで、日本海海戦の将兵だったのである。私に握手をして励ましてくれた。

ソ連の人々は、個人的には実におおらかで、気さくで、好感の持てる民族だと思われる。それが、権力による抑圧、厳格な命令や刑罰、制裁に対処する上 で、身内同士の間でさえ心を許さない厳しさとなって現れたのであろう。シベリアは時に大地のみならず人の心も凍てつきやすいのかもしれない。

23. 遺骨の収集と埋葬

昭和23年、シベリアの短い春が夏の気配を伝えるころ、どこからともなく本物らしい帰国のうわさが高まっていた。それにつけても気がかりなのは、各所に配置されたままになっている屍の整理であった。

シベリアの最初の死亡者はソ連側の指示により埋葬され、以後も火葬が認められて、遺骨は分骨してマッチ箱に入るくらいのガーゼの袋を作り、本籍、住 所氏名、死亡年月日を記して、30センチメートル四方の木箱を私が作り、事務所に安置していたが、その後は、処理のいとまなど全くなく、コチコチに凍った 死体をそりに積み上げて、離れた場所の雪の吹きだまりに泣く泣く置き去りにしていたのであった。赤色委員会はもちろん気にとめる様子もない。

後に知ったことであるが、長尾作業隊長以下4人で密かに収容所を抜け出し、10キロメートル離れた山の中へ二日間出向いたとのことであった。そこに は何百体に及ぶ屍が、山の面に散乱していた。すでに白骨化し、風雨にさらされるままである。それらを集められるだけ集め、永い間弔うことのできなかったこ とをわびながら一カ所に埋葬し、長尾作業隊長が「皇軍将兵の墓」と白樺の墓標に筆を下ろし、野花を手向け「海行かば」を合唱して下山したとか。

スンハラの作業所でも、塚田作業隊長の指示で遺骨を一カ所に埋葬した。ここでは、徳下さんという方が観音菩薩像を彫刻して遺骨と一緒に葬ったと聞き、ジップヘーゲンでも、本部要員が中心となって、ささやかな供物を手向けて、一応の弔いは済ませることができた。

しかし、これらはほんの一部分のことである。何千何万もの遺族とつながる人間の屍を、冷凍まぐろさながらに放置してきた苦悩は、生涯の汚点として消 え去ることはないのである。もとより遺体は何一つ語るものではないが、死者のそれぞれの顔が、筆舌に尽くせない深い哀愁と怨念と苦悶の面相となって我々の 網膜に焼きついたのである。シベリア鉄道を西から東へ走る箇所の高窓から、帰国の途につく日本人捕虜が手を振る姿を見かけるようになったのもそのころであ る。

24. 帰国命令

昭和23年7月5日は、生涯忘れることのできない帰国(解放)命令の出た記念の日となった。

シベリアの短い夏は、この季節から一週間ないし十日間である。その日は晴れ上がった日で、いつもと代わりなく同僚たちは貯木場の運搬作業に出て行っ た。私は一人で器材庫の器材整理をしていると、九時半ころ、突然、庶務係をしていた江藤伍長が「監督が来て、作業現場引き揚げだ」と高声で伝えながら貯木 場に向って走って行く。

私は、とっさに、思想問題かあるいは何かの事件でもと不吉感がよぎった。

やがて作業現場から、何事がおこったかと不審げな顔で同僚たちが帰って来て広場に集合する。

そこへ監督将校が姿を見せ、「ヤポンスキー、ダモイ、ハラショ(日本人、帰国、よろしい)」帰国の準備をせよとの指示である。

デマも噂もあきらめていたこのころ、唐突のこと言葉に一同はびっくり仰天し、鬼に見られていた監督将校はたちまち神様の笑顔に見えた。居並ぶ同僚た ちは、万歳、良かったと、互いにはち切れそうな笑顔で抱き合い、喜びあふれる興奮と感動のるつぼを呈した。しかしまた、そのかたわらに、うそかまことかは かりかね、半信半疑の思いでぼう然と立ちすくむ人もいた。

十時にソ連収容所長から正式に511労働大隊の帰国命令が伝達され、出発時間は午後三時と発表された。舍内での準備は簡単で、限られた身の回り品を 早くまとめ終え、所内の整理清掃も「立つ鳥跡を濁さず」と、てきぱきした動作で片付け、何よりもスンハラ分駐隊の下山が待ち遠しかった。

スンハラ隊が塚田隊長を先頭に山から下りて来たのは午後二時ころだった。にぎやかな話し声がし、こぼれるような満面の笑顔で、子供のようにはしゃい でいた。直ちに本部要員と各小隊長が集まって帰国についての協議。一般に各自の衣服、雑のう、私物は持ち帰れることになったが、死没者名簿を含む記録ある もののすべて、また、記録できるもの、筆記具、用紙の類は禁ずるというものであった。

もちろん、誰であれ、それにはあまりこだわりを見せなかった。一つしかない命を祖国へ持ち帰れる。それだけでよいのだ。だが、残念なのは、亡くなった戦友の遺骨と遺品を持ち帰ることが禁じられたことである。これは最後まで納得しかねない問題だった。

遺骨である遺品であれ、あくまでも我々の手で保管管理していたものである。また名簿は、戦死者とシベリアでの病死者を区分して、事務局人事係の高野 曹長の調べにより作成保管されていたのである。それがどうして持ち出せないのか。赤色委員会は一体何を考えているのだ。理解のつかない怒りから、いろいろ な憶測まで渦巻いていたのである。

日ソ双方、それぞれお別れのあいさつが交わされ、簡単な出発式が行われた。チタ司令部から派遣されてきたソ連軍の少佐は、流暢な日本語であいさつをした。

「皆さん、長い間ご苦労さまでした。いま、皆さんは日本へ帰ります。日本へ帰りましたら、ソ同盟の本当の姿を日本の皆さんに伝えてください。私たちは共産主義になってくださいとはもうしません。この国の本当の姿を伝えてくださればそれでよいのです。

塚田作業隊長もまた我々を代表してあいさつを贈った。

「ソ同盟の輝かしい産業五カ年計画の完成と限りない発展を祝福する」

次いで両国国歌の合唱の後、代表相互の握手が交わされた。しかし誰もが興奮状態で、あいさつなど耳に入らない。汗と涙をにじませた舍屋に別れを告げ、引込線ホーム桟橋へと移動する。

貯木場の引込線には、二段装置された迎えの有蓋貨車が三十両ばかり待っていた。誰が造ったものか、白樺の枝に飾られたレーニン、スターリンの肖像が が貨車の両側に取り付けられている。広い貯木場には、我々の血と涙を流した丸太が高く整然と列をなして積まれているのが見えていた。

桟橋上で乗車人員割りをする。今度は我々が貨車積みされる番である。20年11月3日の真夜中に重い足取りで降り立って以来、2年7ヵ月余、多くの 戦友を失い、今あのときの半分にも満たない人数が帰国の貨車に乗ろうとしている。神妙かつ複雑な思いである。あらためて八百余の遺骨を置き去りにする心苦 しさにさいなまれた。

再び訪れることもないジップヘーゲンを見納め、はやる気持ちで貨車に乗り込んだ。列車は駅へと移動する。各車両の扉は開いたままで、駅では少数ながら部落民の見送りをうけた。

今度こそ東、とナホトカに向けて発車する。ああ、帰国だ、一日として脳裡から離れたことのない帰国だ。生き抜いた嬉し涙で語るにぎやかな会話がいつまでも続いた。

それにしても亡き戦友の遺骨。戦病死者名簿はどうなったのだ、との動議が出る。強力に交渉して携行の努力をすべきではなかったか。我々が帰国して、 遺族に対して申し訳がたつまい。それは誰のせいだ、彼のせいだ、となる。しかし、我々自身日記もメモも全部捨てさせられたではないか。さまざまな意見、目 くばり、耳打ちで話題がとぎれる。

途中、停車する駅ごとに民主同盟の腕章をつけた抑留グループが我々を迎え激励する。「皆さんは帝国主義を打倒し、新生日本を建設するために祖国へ敵 前上陸するのです」と革命歌を歌いながら見送る。貨車の中では「ナホトカまで行っても思想運動の成果が認められない集団は、再び山奥の作業収容所に逆戻り させられている」などとも話し合った。

引揚列車は、途中ハングン駅で第515労働大隊が乗った車輛を増結し、7月7日チタ駅に停車後、丸六日間の旅を終えて最終駅カーメンカに到達したのは夕刻迫るころであった。丘の東方から懐かしい潮風の薫りがする日本海のほとり、幸せはそこまで来ていた。

25. ナホトカと朝嵐丸

ナホトカには引き揚げ船を待つ大集団が仮設収容所や幕舍に入団していた。ソ連全域にわたる60万とも70万とも言われる抑留者が、ここナホトカが帰国への最終点であり、唯一の乗船地であった。またダモイ試験の最後の関門でもある。

ここナホトカ収容所にも腕章をつけた大勢のアクチブ(思想活動分子)が引揚業務、監視統制等を行っていた。ソ連軍により絶大なる権力を持つ、抑留貴 族とも称され、当のソ連人よりむしろ彼らの方への厳重な注意が必要であった。ソ連式思想運動の仕上がり具合の判定によるのか、反ソ分子という密告によるの か、再度シベリアの奥地に逆送された集団も事実あったと聞いた。万が一にもそのような誤解でも受けようものなら万事休すである。どんな言い訳も理由も絶対 に耳をかさないのがソ連人の習性である。

この集結地には、広場、野外舞台等、至るところに

「勤労者の祖国、ソ同盟万歳」

「資本主義打倒」

「天皇島上陸作戦」

などのスローガンを書いたたれ幕が張り巡らされ、腕章をつけた案内係の名目で数多くのアクチブが右往左往目を光らしている。プラカードを手にして労 働歌も高らかに場内を行進する集団、舞台上で大演説会、劇団、楽団が入れ替わっての昼夜の熱狂ぶりで、物々しい雰囲気に圧倒されそうになる。

ナホトカには関所とも言える分所が第一から第四分所まであって、第四分所は病弱者の収容で、我々一般は第一分所から氏名の確認、人員点呼、入浴、消 毒、服装、所持品検査、集団の再構成と第三分所の通過で帰国待機の体制となる。入口と出口は完全に切り離されており、途中から戻ることはできない。第一分 所で入浴のために衣服を脱げば、入浴が終っても脱衣所へ戻ることはできず、裸のまま前進して消毒、第二分所に通じ、洗濯消毒された別の衣服の支給を受ける という具合で、肌身離さずの所持品であっても、この手にかかっては万事休すである。雑のうその他の所持品は、一切相手側の手で消毒、厳重な検査が実施され る。しかも、この期間中、どこでアクチブの目が光っているかしれない。不運な出来事が起こりはせぬかと、誰もが不安で気兼ねする連日であった。

ナホトカに付いてから13日目の7月23日、乗船が決定した。長い長い船待ちの日々であった。22日の夜は事なきを得て、明日は乗船できる嬉しさ に、皆、子供のようにはしゃぐ。興奮の中、戦友ともども尽きぬ話に夜を更かした。明けて午前9時、帰国者名簿の読み上げが始まり、自分の名前を聞き取った ときの感激は胸に迫る思いで、五列の隊伍に加わり岩壁へと移動した。船尾には日の丸が懐かしく翻っていて、心強く安堵の気持ちを誘った。甲板からおろされ た「みなさん、長い間ご苦労さまでした」のたれ幕、船尾に記された「朝嵐丸」は2万5トンもの大船である。

先頭からソ連側の再度のチェックを受けながらタラップを上る嬉しさ、甲板上には船長さん、看護婦さんが並び、いちいちあいさつをいただく。

朝嵐丸も我々同様戦陣の生き残り輸送船であったが、戦後もこうして活躍していた。船体の内外の傷跡、塗料の剥脱、赤いさびが目立ち、くたびれた船の 容姿が感じられた。船室の区分を受けてから身軽になって上甲板へ、解放された自由、束縛感のない行動のできる爽快さ、午前10時、朝嵐丸は二千人の同僚と ともに大海原の船路を祖国へと急ぐ。シベリアの山並遠く亡き戦友の魂に黙祷を手向けながら..........。

26. 舞鶴への船路と祖国、望郷

7月24日真夏日の晴天下、大海原に一筋の航跡を見せて朝嵐丸は祖国を目指しエンジンの響きも心地よく船足を速める。船内放送では25日の夕刻舞鶴 入港予定ということであった。まさに大船に乗った気分で、船内では談笑の輪をつくる者、紙切れや鉛筆を工面して互いに郷里の住所書きを交換する者、郷里ま での順路、名所などを説明する者、体を横たえて思いをはせる者、日露の日本海海戦をしのぶ会話に熱中する者などなど、誰に遠慮束縛のない会話と行動の自由 に、あらためて平和の中での人の親近感と解放感にひたるのだった。

船内の食事は、夢にまで見た白米のご飯、味噌汁、魚、タクアン、梅干、これこそ祖国の味、日本の味である。もはや欲望も不満も消え失せ、幸せを満面に笑みにたたえ、目を輝かしての食事風景は、感謝いっぱいの満腹であった。

船が日本海の中間点を通過したころであろうか。明日の今ごろは舞鶴だと私たちグループは上甲板にいた。夜も更けて、月こそ見えぬが満天の星空のもと、ないだ海はあくまでも心地よく、甲板上には多くの戦友たちが涼風と親しみながらにぎやかに談笑がつづけられていた。

突然、船尾の方から荒い声がする。近寄ってみると、十数人に囲まれて、中央に三人ほど正座していた。

「我々は祖国に帰れるが、亡き戦友の遺族には何と申し訳をするのだ!」

「遺族に合わす顔があるか」

「遺骨が帰れなかったのはきさまらの責任だ」

「ソ連の言いなりにしたのは誰だ」

「とにかく、遺骨を持って来い!」

「この海を渡ってシベリアへ取りに行け!」

「何が祖国への敵前上陸だ!」

けんけんごうごうたる暴言の連発で、多少の暴力もあったようだ。

当然、かの地での思想運動にまつわる遺恨のからむ事件だった。いかなる場合であれ、自分自身そのものである物の考え方、思想を抑圧された押さえることのできない圧力が、戦友の遺骨を置き去りにしたという、ざんきにたえない感情とともにはね返ったものだった。

正座した三人はわびの言葉で頭の下げ通しである。時が変われば立場も地位も平等である。だれ一人として仲裁に入る人もなく、一時はどうなるかと心配されたが、しばらくして事なきにおさまり一件落着した。

7月25日の午後、「日本が見えるぞ...」の一声に、上甲板の人の群れが移動した。船首は人で埋まる。見ると、かすかな水平線上に浮かぶ陸地の面影、歓喜の万歳がわき立った。直視する誰の目にも涙が光っている。船首から離れる者は誰もいない。

朝嵐丸と陸地との距離がいよいよ縮まり、夕刻の舞鶴の山並みが手にとるように見える。ああ、一日千秋の思いがついにかなうのだ。船は速力をおとし静かに湾口へすべり込む。

一夜を停泊の船中にあって、夜明けの舞鶴港を眺望する。港内には爆破され座礁した艦艇、輸送船の無惨な姿がさらされ、敗戦の生々しい傷跡が見られ た。しかし目を点ずれば、朝日に映える新緑の山並みがあった。「国破れて山河あり.....」その景色は、真っすぐに郷里と結んで、懐かしさを一層引き立 てた。

にわか造りの架設桟橋に「長い間ご苦労様でした」の横断幕。アーチの飾りつけが我々の上陸を待つ。はしけ舟二隻が往復して順次上陸が開始された。第 一歩の土を思い切り踏み込んだ。土の感触が祖国に帰れた安堵感を下から押し上げる。多くの出迎えの人波の前を、みすぼらしい姿も忘れて笑顔で会釈しながら 通る。出迎えの人たちの中には、のぞき込むように我が子、我が夫、兄弟を探し求める姿がある。抱き合っての涙の対面も見られた。限りない感動、感激は生涯 脳裡から離れない。

明けては以後三日間、防疫、戦闘経過、収容所、戦病死者の報告を済ませ、7月30日、帰国者二千人は舞鶴駅へと向った。上陸からこの間、出迎えの 方々はもちろんのこと、地元舞鶴市民の暖かいねぎらいのお言葉やお茶などの接待をいただいたことは、今にして忘れることのできない感激であった。

駅頭では生還のよろこびが一層深まり、歓喜の渦、励まし合いの言葉などでごった返す人だかりであったが、一人一人誰もが心は故郷へ飛び、南へ、北へと車窓の人となる。

27. おわりに  戦争のむなしさ.........慰霊

平成7年(1995年)の新春の陽光が、平和な日本国土をやさしく照らしている。

時の流れは今年で戦後50年、半世紀の節目を迎えている。青春時代を大戦の中にさらして九死に一生を得た生還者、おびただしい数の戦争体験者も、この半世紀の流れとともに減少しつつある。

どのような体験者であっても、各々の心の中に、それぞれ後世に伝えたいものを数多く抱いているはずである。また、それぞれに誇りある日本人として、 あの宿命的とも思える戦争へのぎりぎりの清算に心をくだいておられるに違いない。たとえ、それが不充分なものであろうと、生きているうちに我々自身が踏み 出す一歩一歩が、未来への平和国家の維持を約束するものと確信する。

歴史が物語るように、古来から、国の内外を問わず、時の流れとともに戦争がつきまとってきた。そして、その都度、人の社会は悲惨な思いと甚大な被害を被ってきた。万物の霊長を自称する人間社会にあって、この愚かさは余りにも嘆かわしい限りと誰もが思うであろう。

戦争にあっては、相手を殺さなければ自分が殺される。それも集団により大量の殺し合いである。さらに一般民といえども、今やその外にいることはでき ない。残虐非道は常套手段であり、勝敗を決するためには一国の総力動員が必要となる。人命、兵器、その他莫大な物量の消耗と破壊を見越してのことであれ ば、誰であれ事の結果、結末の重大さに意を注ぐ者はなくなり、ただただ勝敗だけに血道をあげるのである。

しかし、勝敗はどうあれ、人命の死に泣く悲哀は双方とも変わりはない。遺族の悲嘆と苦境はこの世の限りである。また物質の消耗は、ともに国民全般の 経済におびただしい窮乏をもたらすものである。戦争体験者は、世界中どこの国でも語っている。『戦争ほど馬鹿げたことはない』『愚の骨頂だ』と。

戦後50年。あのソ連大軍団を前に、砲なく、銃なく、弾もなく、ただ肉迫して若い血を広野に散らせた多くの戦友たち、また戦傷と疲労に耐えながら囚 われの身となり、地獄にも勝る凍てついた大地で、飢餓と望郷の念にさいなまれながら侵攻の責めを果たし死んでいった同僚たちの白骨が、はるかシベリアの草 木にうずもれ、風雨にさらされ、墓標もなく、花一輪、線香一本の慰めもなく風化の一途にゆだねられているのである。

幸い、日ロ関係の一面的好転から、平成五年、新しい財団法人、太平洋戦争戦没者慰霊協会(会長 瀬島龍三氏)による北方地域戦没者慰霊事業が開始さ れ、シベリア平和慰霊公苑建設計画のもと、遺骨収納、納骨堂、慰霊塔、多目的会館その他の完成が待たれるに至ったことは同慶のいたりであるが、今なおまぶ たの裏より消えることのない友人たちの霊を真に慰め得るのは、生き残った我々をおいてないとの認識を新たにし、『あやまちは繰り返さない、繰り返させな い』の気概とともに、戦没者の遺骨収集と墓参こそが終生の責務と心得ている次第である。

シベリアにさまよう六万余の霊に伝えたい。「我々の青春も今なおシベリアにある」と。

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平和の礎
シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦15

平成十七年三月二十二日発行

編集発行:
独立行政法人
平和記念事業特別基金
東京都新宿区新宿二丁目六番一号
印刷:文唱堂印刷株式会社