異国の空に -- 東島房治

異国の空に: シベリア抑留の記録

北海道 東島房治

樺太逢坂収容所

逢坂の収容所には約一千人の兵士が収容された。収容所は日本軍の三角兵舎(地上は三角の屋根だけ出し、下は地下になっている簡易兵舎)が利用された。上級将校は別のところに収容されたらしく、我々と同じに収容されたのは見習士官で終戦時に少尉になった者と隊長として大尉が一人であった。

毎日収容所の整備が主な作業で労働らしい労働はなく過ぎていく。その時こっそりと倉庫を覗くと、樽に入った塩鮭があった。ロスケの塩鮭は塩水で樽漬けにするので色がとてもきれいである。早速一本失敬して腹に巻いて、知らない顔をして作業をしていたが、段々と腹が冷えてきてこれには困った。余りに早い時期にやり過ぎてひと苦労、でもどうやら隠し通して無事持ち帰り、皆で食べる。焼くと塩辛くて食べられない。生のままサシミにして食べると、とても美味しい。ロスケの魚は皆塩水で樽漬けをきっちりするのでちょうど缶詰と同じで長期保存ができる。翌日も同じ所に行ったが今度は錠がかかっていて駄目だった。その変わりロスケの外套が一枚捨ててあったので、それを拾って来た。自分は外套を持っていないので、ちょうどよかった。丈が長いので裾を切り、余った布で靴下を作った。これがまた暖かくて、随分助かった。自分がロスケの外套を着て歩くとロスケが皆笑って、ヤポンスケハラショと聞くので、自分はハラショハラショと答える。(ハラショとは良いという事)

マリンキドーム(日本では営倉、ロスケでは監禁室)の前に見た事のある恰幅の良い、立派な髭をはやした年配の男が一人日向ぼっこをして、ニコニコと見ている。歩哨に誰かと聞くと、この間まで大佐だったが何か悪い事して階級を剥奪されてマリンキドームに入れられたとの事らしい。ロスケの軍隊は出世も早いが落とされるのも早いようだ。それにしても監視もつかず、のんきな営倉だ。

約一ヶ月ぐらいだろう、カレンダーも無いので日付も分からなくなっているが、多分十月の末頃だろう、いよいよ北海道に帰すとの事で出発準備をする。列車が無いのでまた真岡まで歩くと言う。日本に帰れるのであれば少し位歩くのは何でも無い。

途中我々が戦闘をやった熊笹峠を越える。この山の中に沢山の戦友が眠っている。それを置いて自分達だけが帰るのは何と無く後ろめたい思いを感じるが、心の内でさようならと別れをつげる。

夕方近く真岡に入り小学校が宿舎になっていた。真岡市民の方々が何かと世話をしてくれ、食事の準備もしてくれたようであるが、話ができないので状況は何もわからない。

翌日出発に際し市民からの贈り物として一人二枚ずつの餅を配られた。自分達が先に帰るのに何となく申し訳がないような気持ちだ。埠頭に向かい行進する。両側に市民が涙を浮かべて見送ってくれる。我々は一生懸命手を振りながら行進する。

輸送船

乗船したのは約一千人位だろう。ところが、乗船が終わったら、命令あるまで甲板に出るなと指示された。何だか感じが変である。やがて船が動き出したのが気配で分かる。夜半近くになってようやくもう出てもいいと言うので急いで甲板に出て見る。空は晴れているが月は無く真っ暗である。どっちに向かっているのか分からない。しかし夜空を見上げると、これはいかに、船は北極星に向かって走っているではないか。北海道に行くなら北極は後ろでなければならない。これは北に向かって進んでいるので変だといんな騒ぎ始めた。騒ぎが段々と大きくなり、ロスケも気付き、通訳を通じてこれは北の方にソ連の司令部が有りそこで命令を貰い、それから北海道に行くのだと説明される。何となく変な話であるが、一応みんな納得する。翌日午前、北樺太のソ連本土との間が一番狭いところで、ちょうど大きな川のようところで本土側の桟橋に船は着いた。海は浅く水が奇麗なので海底までよく見える。風が物凄く寒く、身を切るようだ。本土側の小高い丘の上に沢山の天幕が有り、既に日本軍の捕虜が沢山居る様子である。こんな寒いところで降ろされたら適わないと思ったが、降ろす気配は無いようである。ロスケの将校が帰船して来て、間も無く船は桟橋を離れた。今度は南に向けて走り始めた。

やっぱりロスケの言った事は本当だったのだと皆安心する。風が冷たいので船倉に降りる。船は貨物船で船倉を何段にも仕切って垂直の梯子で昇り降りする。食事は炊事班を出して大きな釜に蒸気をホースで直接入れる仕掛けで、皆半煮えのひどいものである。

ソ連船は上級船員の奥さんや小学校前の子供まで一緒に乗っているらしい。奥さんは奥さんで仕事も有るようだ。北の港を出て二日たった。甲板に出てみると、何とまだ進行方向の右側に陸地が見えているではないか、これは変だ、北海道に行くならもう陸地が見えないはずだ。これは北海道に行くのではなく、ソ連のウラジオストックに向かっているのではないか、段々と皆騒ぎだしてきた。

船には一千人近くいるから、こんな船を操縦できる船員の経験者もいるはずだ。警備兵は三十人しかいないのだから、船を分捕って北海道へ逃げようか、「しかしソ連側は船の位置を常に無線で連絡を取っているはずだし、ソ連の潜水艦も近くにいるかもしれない。もし逃げたと分かれば撃沈される恐れもあるのではないか」「いやソ連の船員や警備兵も乗っているから攻撃はしないのではないか」議論百出、無理は止めようと言う事で結局諦めた。

三日後船はウラジオ近くと思われる沖合に停泊する。辺りには船が沢山停泊している。翌日船はまた動き出す。しばらくして入江のようなところを奥へ入って行く。港のようだ、ソ連の潜水艦が沢山いる。潜水艦が皆万国旗を掲げている。我々を歓迎しているのかと思ったが、そんな馬鹿な事は無い。(後で聞いたところ今日が十一月七日ソ連の革命記念日との事であった)。

シベリア上陸

くしくも革命記念日が我々のシベリア上陸の記念日になる。船は岸壁に着き上陸が始まる。余り大きな街でない淋しい港だ。港を囲む山には高射砲弾地があるのが見える。ここは軍港かもしれない。上陸が終わり行進が始まった。行った先は何と海岸の砂浜である。

今日はここで泊まるというのだ。町には宿舎の設備がないらしい。砂浜なら何千人でも寝れるだろう。だが冗談じゃない。夏なら兎も角も、今は冬である。何も無い海岸の砂浜に寝ろというのだ。

この砂浜には既に先客がいて、もう何日もいると言う。仕方ない諦めよう。夕食の支給が有ったが、何と米だけだ。どうしようもない。先客の兵隊がさかんに砂を掘っている。行って見ると、何と三十センチ位掘ると下に石炭があるのだ。ソレと我々も一生懸命に掘る。一センチ位の厚さで粉炭や小さな石炭が出て来た。皆でやったら結構集まった。石炭船が沈没か何かして流れて来たのだろう。誠に天の助けである。

石を集めて竈を作り石炭を燃やして暖を取る。米は水を探して来て飯盒で炊き、どうやら夕食に有り付ける。砂の上にも毛布を敷き皆で固まって寝る。ところが夜半になって雪が降って来た。これはたまらん、とても寝て居られない。近くを探したらちょうど良い大きさの鉄の枠みたいな物が有った。皆でそれを運んで来た。上に毛布を掛けて周囲も毛布で囲い何とか十人位入れる小屋になった。真ん中に石炭竈を焚き暖を取る。毛布は小屋に使ったので着る毛布は無いが何とか寒さは凌げる。

翌朝起きて皆の顔を見て思わず笑ってしまった。石炭の煙で真っ黒なのだ。煙突なしで石炭を焚いたので毛布も顔も、真っ黒になったのだ。海水で顔を洗う。何日目だろう、夕方銃声が一発聞こえた。しばらくして日本兵が一人撃たれたとの事、薪を探しに行ったのを逃亡と間違えられたらしい。言葉が通じないので間違いを起こす。絶対に単独行動をしないことだ。

奥地から毎日のように長い貨物列車が着いた。中には囚人が乗っている。皆ソ連人ばかりだ。どうも政治犯らしく、終身刑で我々の乗って来た船でカチャカへ送られるらしい。警備は我々に対する以上に厳しく厳重である。貨車の窓には全部鉄格子が入っていて、用を足すだけわずかに扉を開けてあるだけ。今後我々もあのような扱いを受けるのだろうか。上陸した時に将校の軍刀も皆取り上げられた。どうもソ連は我々を終止だまして来たようだ。北海道へ帰す振りをしないと暴動が起きる恐れがあるからだろう。簡単にだまされる自分達も悪いのだろう。しかし未経験のことであり、致し方ないだろう。

ロスケの子供たちが柵のところまで来て、大きなパンを抱えて盛んにカランダス、カランダスと叫んでいる。(カランダスは日本語で鉛筆)、パンと鉛筆を交換しようと言うのだ。子供達は鉛筆すら不自由しているらしい。しかし残念ながら小さな鉛筆一本すら誰も持っていない。

この砂浜に十日位いただろうか、ここはナホトカという港町らしい。明日列車が来るので出発するらしいとの話が伝わって来た。

翌日の午後列車が来た。見ると貨物列車でなく客車である。ロスケの囚人と違う扱いにまた喫驚、列車に乗り込み終了と同時に発車する。

少し走るともう一面雪野原だ。客車で待遇が良いと思ったのは間違いで、おんぼろ貨車で窓ガラスが所々割れて無いので列車が走ると、シベリアの風がまともに吹き込み物凄い寒さになる。これなら貨物列車の方がよかった。

途中時々小さな駅で止まる。夜間になると警戒が厳しくなる。逃亡を心配しているのだ。しかし西も東もわからない我々が逃げようなんて考える者は一人もいないが、ロスケには通じない。

どこから乗って来たのか、十歳位の男の子が一人列車に乗っているのが見つかり、ロスケの将校が怒り降りろと言う。しかし列車は走っているので降りられる訳がない。ところが将校は無理やり列車から突き落としてしまった。随分と残酷な事をするものだ。我々は子供がどうなったか心配で眠れないくらいだ。雪があるので或は助かっているかもしれないが、この夜中に人家の無いところだったら寒さで命の程は分からない。

出発三日目、目的地に着いた。イマンという町である。どの程度の町か分からない。ここが終着かと思ったら、またここから歩いて百キロ先の収容所に行くとの事、また行軍が始まる。十一月であるが既に一面の雪野原で雪は余り深くなくかちかちに凍っていて、どこでも歩ける状態である。最初の宿泊は小さな村の学校の教室であった。炊事班は直ぐに準備にかかる。

夜でも暖房は無い。みんな石炭の煤で真っ黒になったが、毛布だけが頼りだ。翌日も行軍は続く。一日二十キロ位の行軍なので五日間の予定のようだ。二日目の夜は農家の納屋のようなところに入れられた。狭いので立ったままびっしり詰め込まれた。一晩中立ってもいられないので、段々と腰を降ろす。その為に益々身動きができず足を延ばせない。まして小便をしたくても外へ出られない。こんな酷い夜は初めてだ。しかし狭いところにびっしりなので寒さだけは凌げる。朝まだ暗い内から皆我慢できなくて外に出る。二日目、三日目は別段変わった事もなく、五日目どうやら目的の収容所に着いた。ここも既に別の部隊がいた。自分達は二十人程と一緒に小さな一室だけの棟に入る。三日目程いたが、今度は一ケ中隊二百人位が別のところへ行く事になり、自分達の隊が行く事になった。

新収容所

ここは前の収容所から歩いて一日行程のところで大きな建物が一棟とロスケの住宅があるだけで柵も何もない山の中である。ここに新しい収容所を作るのでその要員として来たらしい。完成すると、また二千人位が収容されるらしい。

後ろには小さな小川があり、山の中なので水はとても奇麗だ。辺りは小高い山に囲まれて、一面の森林であり従って余り風が無いのが幸いである。

ソ連側の収容所長はドイツとの闘いで負傷した傷痍軍人のK中尉で、東洋系の顔をした美男子で独身、誠に気立ての優しい人である。その下に将校が三人、下士官以下下兵が十人で、収容所と警備を兼ねている。大変人の良い所長である為、その部下もまた皆良い人ばかりだ。

労働時間は一日八時間、朝八時から夕方五時までが作業時間で日曜日は休みである。宿舎は二室あり、壁側にぐるっと二段造りの寝台兼居間になり、座っても頭が支えない高さがある。真ん中に鉄製のストーブがあり、夜中も通して焚いている。

寝台の床板が製材した板でなく木材をナタで割っただけの物で凸凹で背中が痛くて眠れそうも無い代物だ。

一番困るのは灯りである。電気は勿論ランプもロウソクも何も無い。しかも冬は午後四時頃には暗くなる。従って作業も終わって帰ってくる頃にはもう真っ暗で、食事をするのも暗い中でしなければならず、一番困った。飯盒のある者は良いが、自分達のように戦闘をやった者は飯盒も無いので、缶詰の空き缶で食事をする。従って、空き缶は貴重品なのである。ソ連では空き缶すら中々手に入らないのだ。

防寒具

防寒具が支給になった。防寒服上下、これは綿の入った物で結構暖かい。それと防寒靴。それはフェルトでできた物で、新しい物はフェルトを型で長靴に造った物で、靴底も全部フェルトである。軽くてとても暖かい物だ。雪がサラサラしているので濡れることがない。捕虜にはそんな立派な物でなく、底の破れた古いものを底に別のフェルトを縫い付けた物。それでも充分暖かい。

ソ連は軍隊も靴下は使用せず、夏は綿、冬はネルの四角の布を足にぐるぐる巻いて靴を履く。ぐるぐる巻くので靴下を二枚も三枚も履いたのと同じだ。それに四角の布なので、同じところを履かないので、なかなか破れない。

捕虜にも同じ物が支給されたが初めのうちは中々うまく巻けない。少し歩いただけで解けてしまう。だが段々と上手になった。外に出る時はシューバー(毛皮の外套)の古い物が支給された。これも本当に暖かい。防寒帽は日本軍の物が支給になった。

ロシア語

自分は捕虜になった時絶対ロシア語等覚えて帰らないと思っていたが、シベリアに渡りいつ帰れるか解らない今、考えてみるとロシア語が分からないと意思の疎通が充分できずに損をすることが多いことに気づき、一生懸命に覚えることにする。

ロスケという言葉は悪い言葉だと思っていたが、実はロスケはロシア人という事で、日本人はヤポンスケ、中国人はキタイスケ、朝鮮人はカレーケ、アメリカ人はアメリカンスケと言う。スケ或はスキと言うのは「人」という意味だった。

灯り

灯りもしばらくするうちに毎晩宿舎の前に止めてあるトラックがジーゼルエンジンで石油を使っていることが分かり、夜こっそり針金の先にボロ切れを着けて燃料タンクに突っ込み、それを絞るという方法で盗むのである。空き缶には芯をつけてランプにした。お陰で食事の時だけでも明かりが取れて、大変助かった。

各班共真似をしたのでトラックの燃料は大分使われた事と思うが、ロスケも知らない訳はないと思うが、何も言わなかった。

点呼

朝夕二回必ず全員点呼がある。寒い屋外に並ばされ、数えるのに三十分も四十分もかかるのである。二百人位の人数を数えるのに一度では数えられない。しかも五列に並ばなければ数えられない。将校でも掛け算ができない。全部足し算で数える。

日本の当番下士官がソロバンで一度教えても信用しない。そんな物で分かる話がないと言う。だから、二回、三回と数え直す。中にひょうきんな中尉が居て、彼の日直当番の時は目だけですーと数えて一回でハラショ(良い)と言って終わる。だが本当は何も分かっていない、ただよい振りをしているだけ。ソ連では義務教育は小学校四年制であるが、殆ど読み書き計算ができない。日本兵は全員が読み書きができるので驚いている。日本人は皆インテリだと言う。特に眼鏡をかけているのは絶対インテリだと評判が良い。

作業に行く時帰る時、歩哨が必ず点呼を取る。それがどんな狭いところでも五列に並ばされる。

虱(しらみ)

朝暗いうちに出て夜は暗くなってから帰るので、部屋の中は真っ暗で、ランプは石油が少ないので食事の時しか使えず、虱取りができない。歯も磨かず、風呂にも入らず、寝る時は着たままでしかも狭いので、皆身体を寄せ合って寝るので、自然発生的に虱が蔓延する。一匹、二匹のうちは痒みも分かるが全身にびっしりいると、もう神経も麻痺して痒みも分からなくなる。たまにごそごそ這い回る奴だけ手探りで捕まえるだけ。日曜日はもっぱら虱取りが仕事だ。虱にも沢山の種類があるのがわかった。シャツの縫い目にはびっしりと卵が団子になってついている。もう一つの発見は虱は飼い主が変わると二、三日血を吸えないらしく、体が白くなっている。これはお前のだから返すよと冗談も出る。

毛布には虱は付かないと聞いていたが、これだけいると住家がないとみえて毛布にもいっぱい居る。いくら取っても取り切れない。一週間たつと元の木阿弥だ。ただでさえ栄養が足りない捕虜にこれだけ血を吸われては栄養失調になるばかり。中には虱を仇と思ってか逆に食べている奴もいて、これには自分も参った。

食事

食事は日本軍の貯蔵米(籾のまま)を持って来たらしく、籾のまま支給されるので、臼を作り足踏み式の杵でつく。籾殻も取れると同時に精白もされる。だが中には籾のままの物も少し入っている。これを五分粥以上に伸ばした物が支給される。昼の弁当も同じ。副食は塩魚と芋、豆、野菜などの煮付けが少し。だが朝と昼の分を一度に食べても腹いっぱいにならない。結局は昼は塩魚に雪を入れて煮て、塩魚のスープを飲むだけ。夕食は黒パンが一人三百グラム位と時々肉の入った煮付けのような物が出る。黒パンは少し酸っぱいので初めは「ロスケの奴、捕虜を馬鹿にして、腐ったパンを食わすのだ」と思ったが、そうではなく、酸っぱい味のイーストを使っているので、腐った訳ではない。

ロスケの兵隊も同じ物を食べているらしい。パンが黒いのは粉にフスマが入っている事と漂白していない為だ。慣れると酸っぱい味が美味しく感じるようになった。

黒パン一個は三キロあるので、十人で十個に分けるとちょうど良いのであるが、これが大変。パンの形が四角でなくつぶれたり曲がったりで平均に分けるのが大変面倒なのである。食事当番が分けるのだが、皆がその周りをぐるりと取り囲み睨んでいる。

まず最初に物差しで計って大体平均にして、今度は天秤で計り目方を同じにする。それでもまだ納得できず、今度は番号札で籤引きし、当たった番号順に取っていく。それでやっと納得するのである。それが毎日の行事でまた楽しいことでもある。

時々炊事からだしを取った後の骨が支給になる。骨を割ると中に 髄 があり、それを皆に食べさせて少しでも栄養の足しにするためだ。だが自分は何となく食べられなくて食べた事がないので味は分からないが、美味しいとの話だった。

ある日、他の班の兵隊であるが、腹が痛いと苦しみ出した。日本軍の軍医が居るので、診察して貰ったところ、糞詰まりだとの事。浣腸をかけたところ出て来たものは何と細かく砕いた骨ばかり。出るわ出るわ、驚愕する程出た。魚の小骨と違い、動物の骨は消化しないのだ。彼は虱も食べていた兵だが、美唄出身の体格の良い男なので、人一倍腹が空くのだろう。危なく命を落とすところであった。

食事に籾が入っているので盲腸を心配したが、籾はある程度大きいので心配する程のこともなく、誰も盲腸にはならなかった。

作業

収容所の作業は外柵作りや、他の地区にある大きな建物を解体して、それをトラクターで運び収容所内に組み立てて宿舎にする作業が大半である。相当大きな建物なので難作業である。しかも何をするにも満足な道具がないのである。

ある日、誰かトラクターの運転ができる者はいないかと言うので、トラクターの運転なら体も楽だしあんな物スピードも出ないし、一回教えて貰えばできると思い自分ができると嘘を言った。「よしそれなら明日からトラクターの助手をやれ」と命じられた。しめたと思ったのが大変な誤りであった。ここは夜中には零下三十度は軽く越す。そのためにトラクターのエンジンが凍ってかからなくなるので、一晩中エンジンの下で薪を燃やして暖めるのが仕事だ。トラクターの運転とは関係ない。皆が寝ている夜中じゅう起きて火を焚いていなければならない。身体は楽で火の側なので寒くはないが、どうしても眠くなる。話が違うと言っても後の祭り。それでも二日間やった。誰かやらないかと聞いたら、やると言うものがおり、早速変わってもらった。

ここでは日中で零下三十度を越すと作業中止になる。

お正月

ソ連もお正月は一日だけ休みになった。二百人もいると百人一首も一首も残らず全部書く者もいる。板も削り板を作って故郷を忍んでカルタ会をやる。外に何も娯楽がないので、大変楽しい。ロスケの将校が見に来て仲間に入れろと言う。句を読むと何もわからないのに、ハイと言って前の札を飛ばす。それが面白くて皆大笑い。

炊事班も毎日の材料を少しずつ節約して蓄えた食料で尾頭つき(鰊)、きんとん、煮付け等五、六品のご馳走を作ってくれた。大変な努力だと思う。久しぶりに満腹感を味わった、良いお正月であった。

カルタはその後も日曜日毎に楽しんだ。 

風呂

少し離れた小川の縁に小さな風呂場ができた。ロシア式風呂は浴槽はなく、部屋の中に五段位の段を作り、下の方で鉄製のストーブを焚き、そのストーブにバケツで何杯も水をかけ蒸気を発生させて蒸し風呂にする。上の段にゆく程熱くなる。自分の好きな熱さの段に腰掛ける。しばらく我慢していると、どんどん汗が出てくる。垢も浮いてくる。結構いい気分になる。しかし石鹸も何もない。タオルもないのでどうにも仕様がない。

ロスケに教えてもらったのは葉っぱの付いた木の枝に水を付けて、それで背中をパンパンと叩く。そうすると浮いた垢が自然に取れるということでやってみる。結構垢はとれる。何ヶ月も風呂どころか顔も洗っていないにで、全身から取っても取ってもどんどん出てくる。本当に何ヶ月ぶりの風呂だろう。生き返った気分だ。だが二百人もいるので、そう度々入ることができない。

自分も一回風呂当番に行った。前の小川から水を汲み、お湯を湧かしたり、ストーブを焚いて暖めたりが仕事であるが、小川が殆ど川底まで凍っていて、下の方にほんの少しちょろちょろ流れているだけ。しかも穴は相当深く、なかなか大変である。だが悪いことばかりでない。それはその穴の明かりに釣られてザリガニが出てくるのだ。 獲 っても 獲 っても次々と出てくる。水を汲みながら二十匹も獲れた。これをストーブの上で焼くと皮ごと食べられる。とても美味しかった。これが本当の役得だ。

当番でもロスケの奥さんが入る時は追い出される。意識的にしたのではないのに、ロスケの女性の方を向いて小便をしたとして、マーリンキドーム(営倉)に入れられた者もいる位、エチケットもうるさい国だ。

虱退治

ロスケも虱がいるとみえて、虱退治の方法を知っている。その方法は小さな小屋を作り、内外から泥壁を塗り密閉する。天井に衣服を吊るし下からどんどんストーブを焚くのである。そうすると、虱は熱いので慌てて走り回りそのうちに足を滑らせて下に落ちるという仕掛けだ。卵も熱で乾燥して全滅する。

自分は虱ドームの中が暖かいのでこっそりさぼって中で居眠りしていたが、しばらくして首の辺りがごそごそするので手をやってみたら何と大きな虱である。驚いて下を見ると、何と全身に虱が這い上がって来ている。思わず飛び出して服を脱いで払った。虱は下に落ちただけで死んではいなかったのだ。さぼった罰で笑い話にもならない。

伐採

試験伐採をやるという事で自分の分隊がやる事になった。ロスケの鋸(ピラ)二人挽きで押して切る。二人で押したり引いたりの呼吸が合わないと疲れるだけで切れない。鋸係が二人、枝を払うナタ(タポール)係が一人計三人一組で三平方メートル、三組で九平方メートルを切るとノルマ100%になる。これは割合と楽なノルマである。

一週間程この試験伐採に参加して大分要領もよくなった。また伐採のもう一つの楽しみは、キノコだ。シベリアの秋は急速に寒くなるとみえて秋遅くに出たキノコが凍って自然乾燥の状態で木に付いている。これを取って塩魚と一緒に煮るととても美味しいのである。昼の弁当代わりになりとても助かった。

ロスケの将校が一人、指導のため一緒に来て色々と教えてくれる。ここの山は誠に立派な森林で、五葉の松がびっしりと生えている。密生に近いので、曲がらず真っ直ぐ伸びている。早速作業に入る。慣れないのでなかなか呼吸が合わない。力ばかり入ってすぐ疲れてしまう。だがやっているうちに段々上手になった。

三人で手頃なのを三本倒すと大体間に合う。それを枝を払って四メートルの長さに玉切りする。払った枝は全部焼いてしまう。そのままにしておくと害虫がつくからとの事。この枝焼きがまた大変助かる。零下十五度から二十度もある中でこの焚火は大きな火になり、昼の休憩時間には裸になって虱取りができるのだ。

シャツを脱いで火にあぶると、虱は熱いので走り回る。そこをすかさず払い落とす。一匹一匹取るより効果的なので皆これをやる。それでも午後四時ごろまでにノルマ100%を達成したのでロスケの将校も大変満足のようだった。

床屋

収容所には床屋さんがいないので捕虜は皆髪の毛がぼうぼうに伸びて段々人相が悪くなる。元々悪いのもいるが、ちょうど自分は良く切れる洋鋏を一丁持っていたのである日曜日に戦友の頭を裾刈りしているところをロスケの兵隊が見つけて、自分達の頭もやってくれと言うので、ロスケの兵舎に行って兵隊の頭を裾刈りしてやる。次から次へと五人もやった。兵隊達は喜んで食事を出して食べて行けと言う。外の者に悪いから持っていかずにここでうんと食べて行けと言う。久しぶりの固いご飯で油で味付けがしてあり、物凄く美味しい。外に肉とか豆の煮付けも出た。働かざる者は食うべからずで、その代わり働くと必ず報酬を出すのがロスケの習慣なのだ。自分は一生懸命に食べた。腹がいっぱいになっても口が飽きないのだ。喉までつかえてもまだ食べたい。ロスケは喉につかえるまで食べたと笑う。次からクシクシドククトルというあだ名がついた(良く食べる床屋と言うことらしい)。それからは時々床屋として呼ばれ、その都度ご馳走になったので大変助かった。春、本隊が来るまで続いたが、本隊が来たら、本職の床屋がいて自分の仕事はなくなった。

コックリさん

自分は初めてで知らなかったのであるが、コックリさんと行って狐を呼んで、占いをするのだ。他の隊それをやる者がいて占ったところ、五月頃に帰れる占いが出たと、その話で持ち切りになった。それでは我々も一つ占ってもらおうと言う事になり、黒パンや魚を無理して残してその兵隊を呼んだ。

どうするのかと言うと、大きな紙に鳥居を書いて、いろは四十八文字と一から十までの数字を書いたものを前に置き、本人は目隠しをして箸のような物を両手で握り、紙の上に置く。窓を開けて狐が入れるようにして一心に念ずるのだ。すると嘘か本当か知らないが手が段々震えてきて、トントンと紙の上を突っつくのである。その突っつくところの字を辿っていくと一つの文章になる。果たして日本の狐が遥々とこんなシベリアまで来るとは思えないが、皆真剣である。

こんな事を信じる程望郷の思いが強いのだ。この時ははっきりした文章にはならずに終わった。自分のように信用しない者がいたので、狐が怒ったのかもしれない、どうぞお狐様お帰り下さい、と本人が言って終わった。

本当に狐に化かされたようなもので、お供えだけはしっかり持っていかれた。その後も時々コックリさんがああ言った、こう言ったと話が伝わってきたが、どの話も当たらないので段々信用しなくなって、いつの間にかこっくりさんの話はなくなった。

パン工場

収容所で使うパンは付属の小さなパン工場でロスケのお婆さん一人と日本兵二人の三人で作っている。

まず釜に薪を入れてどんどん燃やして釜を焼き、熱くなったところで火を全部出して、発酵させた原料を鉄の箱に入れて、焼けた釜の中に入れて蓋をする。三十分位でできあがる。

ある日、長江という兵隊がこのパン工場からパンを盗んだのをロスケに見つかってしまった。所長がカンカンになって怒った。あのおとなしい所長がこんなに怒ったのは初めて見た。所長は「腹のすくのはお前だけではない。皆同じだ。それをみんなのパンを盗んで、自分一人だけ腹一ぱい食べるなど、もっての外、銃殺にする。向こうに行って立て」と言って、腰から拳銃を抜き弾を込めた。長江は真っ青になったが言われるままに五メートル程離れたところに立った。自分達もこれはやられると思った。本人はもう覚悟を決めたようである。所長は静かに拳銃を上げて狙いを付けた。その時間は僅かであったろうが、我々にはとても長く感じられた。

ところが所長が突然狙いを外して言った言葉は「お前はそんなに腹が減ったか」と言ったのだ。長江は「ハイ」と返事をした。「ヨシわかった。お前は明日からパン工場の仕事をやれ」と命じた。本当に良かった。そのお陰で彼は一ヶ月後には丸々と太ってしまった。本当に運の良い奴である。それにしても誠に立派な所長であり、感心させられた。

得な名前

名前で得をした兵隊もいた。その兵は初年兵で丸顔の可愛い顔をした兵であるが、名前が「海老」という。ところがこの「エビ」と言うのはロシア語では親と姦すると言う事になる。

ロシア語で一番汚い言葉が「エビヨッポイマーチ」と言う、要するに「親とする馬鹿野郎」と言う言葉である。海老と呼ぶとロスケが笑うので初め何の事か分からなかったが、彼は一躍有名になり、とうとうロスケの将校の官舎当番を命じられ、毎日雑用をするだけ。食事も充分で帰るまで楽をした組である。

本格作業に入る

三月末頃までに宿舎も全部完成して四月に他の部隊が入所して人員が一遍に一千人程になった。いよいよ本格的な伐採作業が始まる。

ソ連側の警備隊も増強され、警備は警備だけの別の部隊になり、収容所側の隊とは命令系統も別となり、少し厳しくなった。

自分も伐採作業に行く。山は中隊ごとに別の山に入る。伐採の監督に来るのが民間人で、しかも十七、八歳位の女の子なのだ。これがなかなか融通が効かない。また警備兵は警備兵で自分達の監視がし易いように、できるだけ作業区域を小さくし、四方を切り開いて見通しを良くし、その内側で作業をやれと言う。ところが狭いと木を倒すとき危険が多くて能率が上がらない。殆どが素人なので、この木はどっちに倒れるか解らないで切るので、時々自分の意志に反して反対側に倒れて来るので、うっかりしていられない。それで監督と警備兵が毎朝喧嘩をしていて、なかなか作業区域が決まらない。馴れた者は枝の張り方でどっちに倒れるか分かる。また倒した後の作業がし易い場所に楔を使って自由に倒すことができる。しかし素人にはそうはいかない。時々倒そうとすると、思う反対の方へ倒れるが、その場合倒そうとする方向には声をかけるが反対の方には注意をしないので、事故を起こす。ある日、「危ない」、の声がしたので上を見ると、大木が自分の方へ向かって倒れてくる。慌てて逃げようとしたら運悪くツンドラ坊主に足を取られて転んでしまった。もう逃げる時間がない。頭を抱えて伏せる。シューと大きな音を立てて倒れて来る。時間にしてほんの二、三秒だろうが、とても長く感じる。ドンと大きな音がして枝が折れて舞い上がる。ところが自分の身体はちょうど太い枝と枝の間にあり、小枝で背中を少し怪我しただけで助かったが、もう一メートルずれていたら、天国の切符を貰うところだった。皆はもう駄目だと思ったようだ。枝を掻き分け顔を出したら、皆わっと声をあげて喜んだ。

自分は本当に運が強いと思った。戦場であれだけ弾が来ても全くあたらず、今もまた僅かの差で命を拾った。生と死は紙一重と言うが、全くその通りだと思った。

今回も素人が楔で倒そうとして失敗した典型的な過ちだった。
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平和の礎
シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦16

平成十七年三月二十二日発行

編集発行:
独立行政法人
平和記念事業特別基金
東京都新宿区新宿二丁目六番一号
印刷:文唱堂印刷株式会社