戦争と抑留
島根県 星野誠一
1. 入隊
いよいよ昭和十九(1944)年 一月一日は入営日である。今日は十二月三十日。同郷の先輩、新竹五郎さんの招待を受けて、新京神社近くのお宅へお邪魔することにした。更けゆく夜も気に留 めず、盃を重ねるほどによもやま話に花が咲く、そして思い出を秘めつつ寝につく。明けて三十一日朝、新京神社前広場に集合する。既に四、五人集まってい た。新京駅のプラットホームに上ると、大連方面より進行して来た客車の窓から顔を乗り出して「おいで、おいで」している者がおるではないか。近寄ってみる と、十七年三月に別れた、旧制三刀屋中学校で同級生であった奥井君ではないか。驚きと同時に列車に飛び乗り、同席していろいろと話を聞けば、十七年三月卒 業とともに大連の満鉄本社技術部に就職し、現在に至ったとのこと。積もる話を一通りしたところで入隊場所である東寧県東寧駅に着いた。奥井君は歩兵、私は 砲兵、無事を祈り、再会を誓って右と左に別れた。(奥井君は、ソ連参戦により東満のソ連国境、勝関(カチドキ)山陣地の戦闘において二十年八月十六日玉 砕、名誉の戦死を遂げられた。)
大東亜戦争も、十九年十一月になって くると広東軍の移動も激しくなり、ポイント、ポイントは現役兵の精鋭をもって堅め、手抜きのできるところは齢四十歳前後の補充兵で補うやり方に方針転換 し、精鋭部隊は続々と南方戦線へと移動して行ったので、国境駅はますます手抜きなところが多くなっていった。
ソ連のスパイ、我が軍の逃亡兵、夜には照明弾と、次第に不気味さを増してくる一方でした。二十年五月八日、枢軸国のドイツが降伏してからは六月、七月と進むにつれてソ連軍の極東方面への移動が一層激しさを増し、その対策に我が隊の司令部もお手上げの格好である。
二十年八月九日午前零時、極東のソ連軍は一方的に「日ソ不可侵条約」を破り、ソ連国境を超えて怒濤の進撃をしてきた。劣悪な装備の日本軍と、兵力百五十七万人、火砲二万六千門、航空機三千四百機と極めて強大、優勢なソ連軍とでは、明らかに勝敗は目に見えていた。
2. 武装解除
二十年八月十七日、我々の砲兵隊は石 頭近くの山中で終戦を知った。「ウスウス」は心の中で予想していたが、いよいよ現実のことになってくると、ぼーとして頭の中は真っ白になるし、心は激しく 動揺するし、大本営の命令であるからと心を静めようとするけれども、何となく不安が襲っては去り、襲っては去り、、、。神国日本、二千年来負けたことがな かったから無理もなかろう。ただただ心に言い聞かせるより他に道はなかった。牡丹江省東京城街において武装解除することになり、ソ連軍の指揮下に入る。戦 友の皆が、ただ黙々と押し黙り銃を置く姿が大層哀れでならなかった。
東京城街の広場に集結した日本軍将校 は一千人単位に編成替えにされ、牡丹江の仮収容所に向って行軍することとなった。八月のまっただ中、炎熱の中、食糧事情は悪いし、落伍者続出で隊列は乱れ るし、ロスケの歩哨からは怒鳴られ、大変厳しい行軍が続いた。初めのうちは落伍者が出ると戦友がかばい合っていたが、次第に皆が疲労し、我が身も大変に なってくる。落伍者からは、自分らには構わず行ってくれといわれ、それじゃ一足先に行くから必ず後から追って来いよと別れる。後ろ髪を引かれる思いで、後 を振り返り振り返り牡丹江へと隊列は進む。そして疲労困憊、ヘトヘトになって仮収容所に到着。収容所といっても名ばかりで、何か大きな倉庫のような建物が 幾棟も並んでいて、これから先の苦労が思いやらられる光景である。案の定、ロスケの略奪が始まった。時計、万年筆、皮の財布、皮の長靴と、自動小銃をつき つけて、「ダワイ(よこせ)」である。夜になるとあちらこちらで銃声の音がする、恐らく略奪であろう。「ダワイ」を断れば、撃ち殺される。嫌な思いを十日 ばかりして、いよいよ列車に乗って、出発である。
3.「東京ダモイ」に騙されて
九月とは言え、ここは北満、肌寒い。十五両以上と思われる有蓋列車が牡丹江駅で我々を待ち受けていた。ロスケの歩哨が我々に向って、「ヤポンスキー(日本人)、東京ダモイ」と口々に叫んでいる。本当に帰国できるのだろうか。
貨車には、帰国に不必要なような軍馬や大八車のような車輛まで積み、我々には毛布や防寒服まで支給する。日本に帰国するのにこのような物資は要らない、これはおかしい。シベリア奥地に連行されるのでは、、、。一人一人心が騒ぐ。
ロスケには今までさんざん騙されてき た。我々はこれまでソ連に対して何をしてきたか、悪いのは向こうではないか、一方的に日ソ不可侵条約を踏みにじり、たかが一週間の戦争で、満州国で略奪、 暴行、強要等、悪の極みを尽くしたではないか、この上まだ何をしようとするのだ。ここに来て不安が募るのは私一人ではなかったと思う。
そして、我々を乗せた貨物列車が動き出した。
牡丹江よりハルビン周りで大連港より船で日本に帰すのだろうと、皆想像を逞しくして列車の行く手を見つめる。ああ列車が止まった、あ、また動き出した。おかしい、方向が違う、まったく逆の方向である。ハルビンは西の方角であるのに、汽車は東の方向に進んで行く。
貨車の中の騒ぎがやみ、静かになる。 しかし、またよい方に解釈する者がいて、列車はソ連国境の街、綏芬河を超えてシベリア鉄道を南下して、ウラジオストックの港から日本海を横断して日本に帰 国させるのだろうと予想を立てる。列車は止まったり進んだりしてソ連領に入る。夜である。列車が止まった。動かない。恐らくここはシベリア鉄道と支線の綏 芬河線の分岐点でもあるウオロシーロフである。真夜中になって列車が動き出した。どんどん進んで行く。しかし、空を見上げ北極星を眺めると、この列車の進 行方向はウラジオストックではなく、明らかに北の方向に進んでいる。また我々の予想は裏切られた。だが、人間というものは最後の最後まで望みを捨てない。 ハバロフスクから今度は船でアムール川(黒龍江)を下って樺太の方から帰すのではないだろうか、と。我々を乗せた有蓋貨車の中はいろいろと可能性を探っ て、ああでもない、こうでもないと、談義に花を咲かせ、大変な騒ぎである。急に列車が止まった。今度はなかなか動かない。そのうち遠くの方でボーウという 汽船の汽笛のような音がしてくる。これは本当にうわさ通り、乗船して日本海を渡り日本に帰国させるのではないだろうか、と急にまた貨車の中が騒々しくなっ た。
すると、数日たったある日のこと、 「降りろ」「降りろ」と怒鳴る声が聞こえてくる。何はともあれ下車しようと、あちらの貨車、こちらの貨車と、三々五々に集まって来る。そうこうするうち に、「整列せよ」との号令がかかる。そして「前進」の号令である待ちに待った言葉である。ところが注意してよく見ると、アムール川(黒龍江)とは真反対の 山の方向に向って行進して行く。そうしてしばらく進むと、割と大きな街、コムソモリスク市を横切って、だんだんと山手の方向、街の郊外へと進んで行く。や やあって大きな声で「止まれ」の号令がかかる。一千人の隊列が一斉に足を止めた。
4. 収容所生活の始まり
町外れの寂しい場所、有刺鉄線の二重 張りの囲みの中に丸太造りの平屋の建造物が何棟か立ち並んでいた。初めて見る異様な建物、これが私の数年間生活の本拠となった収容所であった。ある程度想 像していたが心の動揺はいかんともなし難く、ただただ呆然として立ち尽くすのみであった。今まで心の中にかすかに灯し続けてきた光明がふっと消えて、お先 真っ暗な世界ができた感じがしてならなかった。二カ所の望楼からはロスケの若い兵隊が「マンドリン銃」を肩にかけて、ジッと我々を見張っているではない か。「東京ダモイ」という一抹の望みも今や完全な形で断ち切られ、夢のない寒々とした抑留生活が始まろうとしていた。
5.食糧と病院
冬のシベリアは夜が明けるのが遅い。 朝七時頃、点呼に集合の合図が鳴る。外は暗い。五百人の隊員が五列縦隊に整列してロスケの点検を待つ。ロスケの兵隊は頭脳が悪いので、五列で人員を確かめ てから出発する。数が合わないと出発が遅れる。冬場は氷点下40度と気温が下がる。防寒服に防寒短靴、足踏みして待たないと足先が凍傷になる。大変であ る。作業場のある伐採場まで約四キロメートルくらい。出発するとみな、下を見て歩き出す。腰には手製の空缶をぶら下げ、外套はボロボロ、尾羽打ち枯らした タカのごとく、見られた格好ではない。ところで下を見て歩くのは、道路上に馬鈴薯が落ちていないかと思っているからだ。道路は吹雪で雪は吹き飛んで余り積 もっていない。ピンポン玉ぐらいなイモに雪の粉がくっついており、馬糞と少しも区別がつかない。また煙草を吸われる方は、煙草の吸い殻が落ちていないか、 この人たちも下ばかりを見て歩く。そして一つでも馬鈴薯みたいな物があれば、みな飯盒の中とか雑嚢の中に入れて、また下を向いてトボトボと伐採場へ向か う。現場に着くと拾い集めた物を飯盒炊さんをする。でき上がると取り出して食べる。たまに炊いていて、何か異様な臭いがして飯盒の蓋を取ってみると、凍っ ていた馬糞が温められて熱湯で溶かされ砕けてばらばらになり、他の馬鈴薯にも移り香がして、その飯盒の分は全部だめになるので、そんな時は皆、がっかりし てしまう。シベリアの冬の路上は粉雪があり、それが馬鈴薯や馬糞にくっつくから、見分けがつかない。実際、我々抑留者は、食べ物にはまことに真剣であっ た。
収容所の食事は量が少ないし栄養がな いので、体が衰弱してくるのが分かるような気がしたので、春になるのを待って、マムシとかシマヘビとかを捕え、皮をはいで、骨ごと焼いて食べた。また、マ ムシの目は栄養失調で鳥目になった者には特に珍重がられ、患者の方にはよく作業現場からマムシの目を取って、持ち帰ってあげた。軽い症状の鳥目の方ですと マムシ一匹分、即ち目の玉二個飲めば、大隊快復したものです。カエルも食べた。シベリアのカエルには腹の赤いのが多い。皮を剝いで焼いて食べると、小鳥の 肉のように香ばしくて、美味しかった。
また、農作業場近くには川は流れて おった。その川べりには、とてつもなく大きなから傘のようなフキが生えていて、それを取って飯盒で湯がいて塩を入れ、少し苦かったが我慢して炊いて食べ た。いろんなキノコを毒キノコと見分けながら炊いて食べたり、その他食べられそうな物は何でも食べたから私は胃腸を壊してしまい、下痢すると風呂場(ドラ ム缶風呂)に行き、消し炭をかき集めて、それを石を金づち代わりにしてコンコンと叩いて粉にし、下痢止めに飲んでいた。作業に行って腹具合が悪くなると、 その都度そういうことをしていたら、とうとう腸の方に傷がついたのか血便が出るようになり、熱が出て作業に出られなくなった。ソ連の女医が来て診察する と、「熱が下がらんから、お前はマラリアだ」ということになって、「入院しなさい」と言うのです。ところが、日本の軍医さん(山根少尉殿)は、「お前はマ ラリアではない、腸に傷があり、そこから熱が出ているので、大腸炎だからそんなに心配することではない。病院に入ったら作業に出なくてよいから入院せい、 入院せい」と入院を勧められて結局病院に入院した。病院ではマラリアということで直ちに隔離病楝に入れられた。ところが一週間たったら平熱に下がってしま い、今度は普通の病楝に移された。
そこにはいろんな患者さんが入院して おられ、中でも佐世保出身の前田兵長(当時四十五歳)さんなんか栄養失調で小便が極めて近く、内務班におられた当時は多いときで一晩に便所に十三回も通っ ておられた。入院されてからは小便が出るのが分からんらしく、いつもワラ布団(軍隊の敷き布団)がブッツブッツ湿っておった。栄養失調になると、本か何か で見たが、死ぬ前になると寝ていて手を合わせる、と。私の隣にいた補充兵の田崎さんなんかは、死なれる一週間前ぐらい前までは食べることに大変関心があっ てガツガツしていた方だったのに、死ぬ一週間あたりからは何も欲しくないようになり、それで彼言うのに「俺、今夜死ぬかも分からんよ」と夜中に言う。「そ んなことはないよ、日本に帰るまでは何としても頑張らねばいけないよ」と言い聞かせる。朝になって隣に寝ているはずの田崎さんを見ると冷たくなっている。 これには大変驚いた。彼が昨晩行ったことは本当のことであったなあ、と。ただただご冥福を祈るのみであった。
私が入院中、病院で見かけたことです が、栄養失調、結核、壊血病、発疹チフス等、病気で毎日のように五、六人から十人ぐらいの戦友の方々がお亡くなりになり、時には一日に二十人も亡くなられ た日もあった。いつも朝になると遺体を迎えにトラックが来まして、丸太のように硬直した遺体、冬なんか寒さが厳しいので当然すぐ硬直します、入院患者のう ち比較的元気な者が硬直した遺体の頭と足を持って、一、二、三と掛け声をかけて待機中のトラックに投げるようにして乗せ、時には満載して墓場の方へ乗せて 行くのを目の当たりに見て、本当に哀れだなあ、この光景をご遺族の方が見られたらどんなお気持ちであろうかと手を合わせつつ、心からご冥福を祈るのみでし た。
6. 伐採作業
私たちの伐採作業現場は、収容所から 山の手の方へ約四キロメートルぐらいの距離でした。二十年の十二月から明くる年の十二月まで、約一ヵ月間作業をやりました。夏場は蚊とかブヨとかに襲われ ることがあったが、それでもまだ何とか我慢することができた。ところが冬場になると大変です。私は八分隊の副班長で、分隊長は柴田軍曹という。三十八歳の 補充兵上がりの方でして、作業になると、いつも何だかんだと理屈をつけて絶対出ない。それで私の分隊は私が引率を続ける。隣の七部隊には生駒伍長という同 年兵の副班長がおりまして、この分隊も班長が石田伍長という大阪天王寺の出身でしたが、この人も補充兵上がりの方でして、これも作業には怠けて出ません。 結局伐採場では生駒君と二人で作業を組んで、先頭に立ってどんどん伐採にかかります。戦争が終って階級章を外すと兵隊がなかなか言うことを聞き入れず、思 うように働いてくれない。かと言って作業をサボルとノルマが上がらず、ロスケの監視兵から銃を持っておどし怒鳴られる。
道具は二人引きのノコと斧とで作業をやる。ノコでどんどん木を倒していって、斧でトットトットと枝を外して二メートルに切って、高さが一メートル、長さが二メートルに積む。それを仕上げてやり遂げるとノルマが100% になる。これはもちろん二人の共同作業ですので、二人が力合わせてしないと、とてもノルマ100%おろか50%もできない。
天 候が悪く気温が氷点下四十度以下に下がって、その上また吹雪でも来れば、気温は体感氷点下七十度、八十度になる。とても作業は思うようにならない。そんな ときには切った丸太の積み方に小細工をする。枝の多いシラカバの木を一本切り倒すと、その枝と枝とを組み合わせて高さを作り、また幅も作る。普通平地に二 メートルに切った丸太(直径十センチから二十センチ)ばかりで積むと、なかなかノルマが100%になりませんが、このシラカバ方式で積むと、100%が割りとたやすくできる。そういう皆、いろいろ工夫して少しでもノルマの%を上げようと努力した。
気 温も十二月になると、大体普通氷点下四十度ぐらいには下がります。しかしロスケは、温度が四十度、五十度に下がっても、今日は三八度とか三九度とか言っ て、作業にかり出す。規定によると、大体気温が氷点下四十度を超すと作業に出さないようになっている。実際四十度を以下になると寒くて伐採場に行っても仕 事にならない。まず現場に着くと皆すぐ薪集めをする。枯れ枝など薪をどんどん集めて来ては、ドーウと燃やして暖をとって体を温めてから作業にかかる。ソ連 の監視兵にして見れば、そうしたことが気に入らない。「作業にかからないで焚き火ばかりに当たっている」と、ロスケの兵隊は小銃を持って来てはおどす。だ からノルマがなかなか達成できない。私はいつも50%ぐらいの食事しか食べていなかった。体格のいい体力のある元気な方は、腹いっぱい食べたいために毎日の仕事を無理して100%から120%ぐ らいの作業をする。ところがそういう食事の量を増配されて食べても、腹ばかり膨れて満足感は満たすことはできるかもしれないが、栄養食ではないため、か えって死ぬ率が多かった。結局、体力にまかせて仕事をされた戦友の方がバタバタ倒れていかれた。体の弱い者は、仕事をしなくとも殺すまではせんから、まあ いいかげん仕事をやろうと、ぼつぼつ作業をした者がやっぱり後まで残った。
冬期は夕方はすぐ日が暮れるので、仕 事が終ると早く集合して、また来た四キロメートルの道を収容所まで帰らねばならない。栄養失調のような者達が、防寒短靴みたいな物を履いて、防寒服を着て いては、なかなか歩けない。体感温度氷点下七十度、道路は寒波でさら地みたいなサラサラ雪であったが、それでも山手の方はある程度、四十センチから五十セ ンチぐらいは積雪があります。その雪の中をボッソボッソ歩くのは大変難儀なものであった。悪天候で作業条件が悪くノルマの成績が上がらん日には、ロスケの 兵隊が機嫌を悪くして「ビストレー、ビストレー(早く、早く)」と言って、我々の後を追う。いくら早く帰れ、早く帰れと言われても、足が言うことを聞かな い。いつも冬場は暗くなって収容所に帰る。それから点呼をやるので一層遅くなる。
ある日のこと、作業から帰って、いく ら点呼をやっても作業人員を点検しても、どうしても一人人員が合わない。誰だ誰だ、誰がおらんかと、よく調べてみたら、藤田がおらんじゃあないか、という ことになった。この藤田さんは補充兵上がりの年齢は三十八歳で、青森か秋田、東北出身の方でした。早速探さねばということになり、代表者と、ある程度体力 のある者が、私もその中に入って、今日作業をやった現場に暗い夜道(雪道である程度は助かった)を捜しに戻ったのですが、現場近くの山の中に半分くらい 入った所でしたか、藤田さんが倒れているのを発見し、体力のある者が交代交代で肩車に背負い、収容所に連れて帰った。しかし既に全身凍傷で硬直が始まって おり、どうすることもできなかった。ただただ哀れというほか言葉もなし。「安らかに成仏あれ」と祈るのみであった。
朝、収容所を出発して伐採現場に着い たとたん、体力のない者は寒さのためによく倒れた。倒れるとすぐ焚き火をして体を火であぶってやる。体を温めてやるとまた元気を取り戻す。しかし大した仕 事にはなりません。伐採というのは夏場は蚊などに苦労するが、冬場はなかなか大変な作業でした。
7. 荷役作業
ア ムール河(黒龍江)をサハリン(旧樺太)方面の河口の方から貨物船に食糧品、即ち塩ザケ、塩マス、塩ダラ、塩ニシン等をビヤ樽のような大きな樽に詰めてコ ムソモリスクの港に運んで来た品物を、船倉から甲板に揚げなければならない。階段があって、なかなか引き揚げることが難しい。ロープで巻いて甲板に引き揚 げるより手はない。ロスケの労働者もいて、その労働者たちは、樽の壊れたのから前記品物をかっぱらって、まず彼らが先にバザール闇市に持って行き、お金に 換えて帰って来る。そこで今度は我々に対し、「見張りをしているから、取れ、取れ」と言う。なかなか取れる品物がないと、船倉からロープで塩魚が入った樽 をクルクル巻いて揚げると、もう少しで上に揚がるかなあというところで、わざと下へ落とす。下へドスンと落とすと、ポンと蓋が割れて中身の塩魚が顔を出 す。そいつを手早く外套の裏に隠したり、ポケットに突っ込んだりして持ち帰るのである。最初の頃は成功してよかったのですが、そのうち手の内が見つかり出 して、なかなかそういうこともやれなくなった。面白いような、つらいような作業であった。
8. 建築の基礎工事
こ れは冬場の工事現場のことですが、ビルを建てるに当たって基礎工事をしなければならない。直径一メートル、深さ一メートル五十センチぐらいの穴を掘らなけ ればならない。冬期の作業は土面が凍結しているので、なかなか掘るのが容易でない。氷点下四十度にもなれば、土もコンクリートと変わりない。固くてつるは しが全然立たない。先の尖った鉄棒も歯が立たない。こんな時は、約一時間ぐらいかかって薪集めをする。現場がグループ、グループに分かれているので、その グループごとに集めて来た薪を穴を彫る所に山と積んで、火を燃やす。しかも一時間は焚き火をしてどんどん燃やさなければならない。そうすると土の表面の凍 結が解けて、旧軍隊のエンピ、今のスコップよりやや小さいですが、ちょうどあの皿の深さほど掘れる。その掘れた泥を取り除くと、また下は固い。また薪を集 めて来て、掘れた穴の中に山と積んで一時間ぐらいドンドン燃やす。そしてまた掘る。このことを繰り返す。氷点下四十度、五十度、厳寒の地においてこういう 作業をするということはなかなか大変なことで並の精神力ではとてもできることではない。だから、ノルマも100%どころか、50%もできない。そうなれば食事の量も減らされ、常にひもじい思いで、私もとうとう栄養失調になった。
9. コルホーズ(農場)作業
夜明けとともに収容所を出発すると、 途中にブタの飼育子屋があって、十頭ばかり飼っていた。これはちょっと余談になりますが、そのブタの餌に畑からキャベツを取って来て、下葉を除いて、葉っ ぱの上等部分だけをブタに刻んで与え、下葉は全部捨てるのです。毎朝そうして捨ててある。我々はその捨てられたキャベツの下葉を皆と争いながらむさぼり取 り、農場に着いてから焚き火をしてその葉っぱを焼いて食べるのです。ブタの餌にもしないキャベツの下葉を、人間が争って食べる。焼くと甘味が出てうまかっ た。まさに人間の最低生活、落ちぶれたものです。
コルホーズに行って馬鈴薯の種芋を畑 に植えるとき、確か六月ごろでしたが、シベリアでは年に一回しか収穫ができません。あらかじめ苗場に線を引き、約四十センチ間隔で種芋を植えて歩く。ここ までは普通の作業であるが、何と明くる日になると、昨日植え付けたピンポン玉弱ぐらいの種芋をほじくって飯盒に入れて煮て食べているのです。腹が減っては 「背に腹はかえられぬ」たとえ話のごとく、悪いこととは知りながら、皆平気でやった。身体の栄養のバランス上、肉体がそう求めたのであろう。
10.ナホトカ
ソ連に強制抑留されてはや丸二年、二 十二年七月のこと、突如ダモイ名簿に載せられて、ナホトカ行きが決まった。夢のような出来事である。嬉し涙がとめどなく頬を伝う。次の瞬間はまた心臓の鼓 動が停止しそうな言葉が待っていた。収容所所長から、「お前は栄養失調で骨と皮のように痩せているので、もう少し太ってから帰国しないと、舞鶴でアメリカ さんに叱られるとまずいから、今しばらくここに留まって少し太ってから帰す」との達しがあった。まことに残念である。今年の冬、またここで過ごすのか、俺 はこの衰弱した体で、とてもシベリアの厳寒を乗り切ることはできないだろうと半ば諦めていた。
だが運というものは、いつ転がり込んでくるか分からない。その後、二ヵ月たって九月十日ころであったか、二回目の「ダモイ」の命令があった。何はともあれ嬉しかった。が、まだまだ油断は禁物である。
ダモイ列車に乗り込んでも、安心はで きない。気になるのは思想問題である。車中では革命歌を皆熱心に歌っている。もしくは、熱心そうに振る舞わなければ収容所へ逆送の仕打ちが待ち受けてい る。常にアクチーブ(思想教育者)が、反動分子、反共者は日本に帰すなと叫んでいるからである。スターリンへの感謝文も書けと言われれば、思想教育の一環 として書かねばならない。ここに来て収容所逆送にでもなれば大変なことである。
車は勢いよく煙を吐きながら、住み慣れたコムソモリスクを後にした。ハバロフスクを通過し、一路ナホトカへと下って行った。
ナホトカに着いて、早速、私は炊事上 の使役に出された。その日の朝食は、塩ダラの煮込みご飯であった。ナホトカの収容所に、ダモイの待機者が二千人おった。その二千人全員にタラの煮込みご飯 を出した。私は内務班で朝食を済ませ炊事場に行くと、炊事班長から、炊事の使役に来た者は、後からご飯をいっぱい食べさせてやるとのこと。朝食を食べたの に、またその上に余分にご飯を食べた。ところが昼前ころから皆、腹が痛い、腹が痛いと騒ぎ出した。私も腹が痛くなって、まず便所へ行った。そして内務班に 帰る。また便所に行きたくなる。行ったらまた下る、また帰る、また行きたくなる。その繰り返しで、とうとう便所紙を使い果たしてしまい、昼前から便所へ 行って、午後六時ころまで便所におった。下痢で便所から出られない。そうこうするうちに分隊の者が、私が見えなくなったと言って大騒ぎとなり捜し回り、結 局、私が便所におったのを見つけた。その後やっと、なんとか下るのが止まって内務班に帰った。
それからダモイの「恵山丸」という船 がナホトカ港に入港するまで一週間あった。その間、何とか病気を治してこの船に乗船しなければと心は焦るばかり。海岸まで出ては砂浜を歩きながら海に向っ て手を合わせ、病気平癒を神に祈った。早く治らないかなあ、この日本海の向こうには夢にまで見た日本がある、内地がある。ここまで来てお陀仏するのはまこ とに残念極まりないと涙が出た。この食中毒で重傷の方はお亡くなりになり、また病院に逆送された重病人もおられた。私はこのとき、満二十歳であった。若 かったために、一週間ぶりに恵山丸が入港したときには病気が直っておった。
恵山丸の乗組員、看護婦さんに出迎え られて乗船。ソ連には、牡丹江の仮収容所を出て、シベリアの収容所、そしてナホトカと幾たびとなく騙され続けていたので、無我夢中、足早に船へと桟橋を 渡って行った。恵山丸が白波を蹴立ててナホトカを出港する。イルカの群れに追走されながら穏やかな日本海、あくまでも凪の日本海を四日で横断、やっとの思 いで舞鶴に上陸することができた。まさに感無量である。
ナホトカで二千人全員中毒になったということは、一生涯忘れることができない事件であった。また、六時間便所づめだったのも無論のこと、私の脳裏から離れることはない。
11. 最後に一言
ソ連のスターリンは、ポツダム宣言を 踏みにじり、日本軍六十余万の労働力を、自国の戦後復興作業に動員するため「東京ダモイ」と欺いてシベリアに連行し、長期抑留を強制した。過酷な気象条件 のもと、劣悪な給与を受けながら強制労働に従事させられ、七万余名の戦友を失った。まことに無念、悲憤を禁じ得ず。そして、今なおシベリアの凍土に眠って おられる戦友のことを思うと、まさに哀感の極みである。
戦争というものは極めて悲惨な結果を残すもの、平和がいかに大切か、世界の永遠の平和を祈念するものである。
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平和の礎
シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦15
平成十七年三月二十二日発行
編集発行:
独立行政法人
平和記念事業特別基金
東京都新宿区新宿二丁目六番一号
印刷:文唱堂印刷株式会社